しかしカーシュ様はもう部屋にはいらっしゃらなかった。
 私は数人の下級兵が同時に使用している部屋で自分のベッドに座って、あのときカーシュ様が巻いて下さった包帯を畳みながら待つ。
 同じ部屋を使っている、“私”を知っている人間のひとり、いわゆる騎士団内での友人が私を見て言った。「今日は甲冑は外しているんだな」と。
 私はたとえこの部屋にいるときにでも、基本的に甲冑はつけたままでいた。取り外しが億劫であるということもあるが、主に、いつカーシュ様がいらしてもいいように、である。
 だが、そんな必要はもうないと思った。そして、もしかしたら、また別の意味で、もうないのかもしれない。
 あの遠征以来、カーシュ様が私に対して前のように話しかけることはなくなっていた。
 悲しいが、それでいい。それが本当の意味での「上司と部下」なのだから。
 私だけが特別目をかけて頂いてもよい理由など、どこにもない。




 今日は門前の警備担当だ。私は規定どおりに甲冑をつけて、帯剣して、持ち場につくために部屋を出ようとする。
 そういえば、そんなときにも、注意が散漫になっているとか、非常事態への対応ができていないとか、様々なことを注意されたものだった。カーシュ様に。
 私は寂しさを振り払って、扉の取っ手を下げた。扉を押した。
 会ってしまった。

「…………。」
「…………。」
「……あー、今日は天気もいいし、絶好の警備日和だな――」
「…カーシュ様。本日は曇天でございます。」
「………。」
 カーシュ様の表情が厳しくなった。

「ま、まあ、日射病の危険も少ないし、な?」
「我々下級兵は、曇天であろうとも、分厚い装甲の中で蒸し焼き状態であります。」
「………。」
 私の口から出てくるのは、そんな情けない言葉ばかりだ。部下らしく、部下らしく。懸命にそう振舞おうとするものの。

 何も、意識する必要などないのだ。カーシュ様は、ただ、部下の様子を見に来られただけ。
「門前警備がございますので、私はこれにて失礼致します。何か御用があれば、中の者にお申し付け下さいませ。」
「待てよ。」
 腕を引かれる。

「オレは、おまえに、用があって、来たんだ。」
「…どのようなご用件でしょう?」
「暑いなら、取っちまえばいい。」
「!」
 耳元でがちゃがちゃという音が聞こえて、少しの間の後、甲冑が外される。
 抵抗はできなかった。
 視界が広くなり、カーシュ様のお姿がはっきりと見られる。

「ほら、そのほうが、…そ、その、……きれいだ。」
 少し言いづらそうに言葉を濁らせて、それでもカーシュ様は確かに私に向けてそう仰った。
「…………そうで、ございますか?」
「ああ。」


 私は微笑んだ。自然と表情が緩んでいた。
 カーシュ様も表情を柔らかくして、そうして2人で目を見合わせて、ぷっと噴き出した。
 ひとしきり2人で笑う。


「少しだけ…悲しゅうございましたのよ?」
「ははは、オレに会えなくて、か?」
 ほんの軽口。いつものカーシュ様のものだ。本当にほっとする。
 …ほっとした、はずだったというのに。いつの間にか私は呆けたようにカーシュ様を見つめていた。気づいてしまった。

「…………。」
「な、何だよ。冗談だっての――」
「そうで、ございますね。わたくしは、あなたに会えなくて、とても悲しかった…とても寂しかった…。」
 ただの「上司と部下」に戻ったことが、「特別」ではなくなってしまったことが、ではない。ただ私はカーシュ様に会いたくて、ただ私はカーシュ様の声が聞きたくて、ただ私はカーシュ様の姿を見たくて、ただ私はカーシュ様の傍に立っていたかっただけなのだ。

「……な、」
「お会いしとうございました、カーシュ様。」
 まるで何かをはぐらかすかのように、カーシュ様は盛大に咳払いをし始める。ごほんごほんおほんおほん。とにかくわざとらしいそれが終わってから、んん、と喉を鳴らした。
 そして不適な笑みを私に向けて、言う。

「そうか、そーんなに俺様に会いたかったのか。」
「はい。」
「憧れの四天王、だからか?」
「はい、もちろんです。でも、わたくしは、カーシュ様だからこそ、お会いしとうございました。わたくしはカーシュ様が大好きですから。」

 自分でも驚いてしまう程、言葉が自然に口をついて飛び出していた。“大好き”だなどと、そんな言葉が恥ずかしげもなく出てくるだなんて。
 それでも私はとにかくカーシュ様が「大好き」だった。そこにどういった意味があるのかはまだよくはわからない。

「…ばっ、バカヤロウ!恥ずかしいこと大声で言うな!」
「へ」
「少しは照れろ!」
 が、それに対してカーシュ様は私以上に何か思うところがあったようで、それだけ言うと、蒼い頭髪を流して背中を向けて、ずんずんと歩き出してしまった。

「あ、あの、カーシュ様…」
 そんな反応をされてしまってはこちらも恥ずかしい。
「行くぞ!今日も斧の特訓だ!」
「……はい。」
 呆然と背中を見送る私に向けて発せられた言葉。
 私は心から笑顔になって、自分から歩き出した。








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