好きだ、愛している、と、飛びそうになる意識の中何度口走ったことだろう。


 朝、目を開けると、隣に人の影は見つからなかった。
 私はやりきれないような気持ちのまま重い身体を起こして、白いシーツがずり落ちて露出する肌のそこかしこに残る赤い跡に頬を染める。罪悪感に胸を焦がす。
「…………。」
 抱えた膝に顔を埋めて、大きく深く息を吐く。
 そして終わった直後に顔を勢いよくあげて、ソファの周囲に散乱する衣服を拾い集めて身に纏う。
 ベルトと鎧は残して部屋を出た。




 やっと見つけた後姿は、私が何度追おうとしても間に合わなかった、大きな、ずっと憧れていた背中だ。
 蒼色のさらさらと風に流れる綺麗な髪の毛が、空を映す。その向こうには、限りなく広がる大海原。
 ひとつ間違えば、どこまでも限りなく深い海に真っ逆さま。懸命に打ち寄せる波音が少しやかましい、蛇骨館北の断崖。
 一般的に人が来ない所だから、見つけることができたのは偶然だったのだろう。それとも、深層心理は同じ、ということか。
 ただ、人の居ないほうへ、居ないほうへと導かれるままに歩いていたら、ここに来た。そして見つけた。


 私はその背中に小さく声をかけてから、恐れ多いながらも隣に腰を降ろした。
 カーシュ様はこちらを見ることはせずに、遠く、遠く、今はこの世界のどこにも無いものを見ていた。
 私にはそれを見ることはできない。
 塩からい風が吹き、力強い波が遥か足元で打ち寄せる中。ぽつりと口を開いた。


「………いや、その、…何て言うか。」
 カーシュ様は言いづらそうに、例えば目線をそらしたり、例えば頬を軽く掻いたりしていた。そうして散々注意をそらそうとした後、いや、正確には、「はっきり仰って下さいませ」と、私に促された後、
「…ありがとな。ちっとだけ、気が楽になった。
 オレには、おまえの望むような返事はやれないかもしれない。でも、後少しだけ待ってくれ。今回の遠征が終わったら、おまえに言いたいことがあるんだ。」
 私は目をしばたいてカーシュ様を見た。どうやら、正気なようである。
 混乱状態に陥っているとか、脳をやられているとか、そんなのではないようだ。


「…………。」
 私は目をしばたいてカーシュ様を見た。つ、と冷たいものが頬を伝った。カーシュ様はぎょっとした様子で私を見た。
「なっ…………お、オレ、何かマズいこと言ったか?やっぱ気にしてたか?いや、それはほんっとーに悪かった!まったくオレって奴はまた自分のことばっかり考えて」
「いえ、違うんです、カーシュ様。」
「やっぱりおまえも女だもんな、ごめんな!あんまりアレだったもんだから――って、…え?」
 涙を拳でぬぐいながら口を挟むと、カーシュ様は今度は目を丸くして私を見た。いろいろと言い過ぎてしまったことに対するものなのか、その赤にはばつの悪そうな色が混ざっている。


「違うんです、カーシュ様。カーシュ様は何にも悪くないんです。」
「…なら何で泣くんだよ……」
「…泣いている…私は、やはり、泣いているのですか?」
「ああ、どう見ても、だ。」
「そうですか…」
 私は少しだけ、涙をぬぐった拳に視線を落とす。
「…どうして、でしょうね。気持ちは落ち着いているんです。
 もしかしたら、嬉しいのかもしれない。カーシュ様にそんなふうに言って頂けて、嬉しく思う心があるのかもしれません。」
「……そういうもんなのか…」
「…私にはわかりません。なにぶん、初めての経験なものですから。」
 それでも私は笑った。すると、カーシュ様も笑った。




 水平線を越えて昇ってきた太陽が、真横から照らす。そのときのカーシュ様のお顔を、私はきっと、いつまでも忘れないでしょう。
 カーシュ様はそのとき、赤い瞳で確かにこの私を見て、こう言ったのです。
「行って来るな、。」
「はい、行ってらっしゃいませ、カーシュ様。わたくしはいつまでもお待ちしています。」
 そのとき私は、確かにこう応えたのでした。

 カーシュ様のお役に立てたかもしれない!
 カーシュ様のお心を軽くして差し上げることができたかもしれない!
 そんな嬉しい可能性が私の脳を過ぎりましたが、そんなことはこの際重要ではないように思われました。
 ただ、カーシュ様が私の名前を愛称でお呼び下さって、「行って来る」と、言って下さった!
 それだけだったのです。
 たったそれだけのことが、私の心をここまでも軽くしたのです。
 恋する乙女の心はどこまでも身勝手で、どこまでも自由なものなのでしょう。そして、今は断言できる。私はその一人です。
 私には、もう、分厚い胸当ても、重い甲冑も、要らないように思われました。








 そしていま、まだ、カーシュ様は帰っていらしていません。
 私はコースターの上のカップの取っ手に指を絡め、中の飲み物を口にしました。それはあのとき、カーシュ様に無理矢理口に押し込まれた滋養強壮剤とは打って変わった味をします。
 こんこん、と、控えめなノックが部屋に届きました。そして部屋に入ってきた少年は、ノックの音だけでないものを、私に届けてくれたのでした。








あとがき
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