「今、開けますわ。少々お待ち下さい。」
 私はティーカップをテーブルに置いて、白い床を歩いて入り口まで向かった。鍵を開けて、ノックの主を迎え入れるべく扉を開ける。
 私はそこで、動作を止めてしまった。

「…あの、初めまして……」
 開けばそっと奥から牙の覗く口が、信じられないことを口走る。
「…やっ、ヤマネコ様…?」

 私はノックの主、ネコ科の亜人、ヤマネコ様を見上げた。隠そうともしない身の毛もよだつ程の恐怖にほんの少しの期待を隠して、黒い毛皮に覆われた大柄な姿を見る。

「ヤマネコ様、生きていらしたのですね!この度はわざわざよくぞいらっしゃいました、歓迎致しますわ!さあ、狭い所ではありますが、遠慮なさらずお入り下さい。」
 恐怖のあまり半ば“ヤケ”になっていたのかもしれない。私はいつもにないくらいに早口に話し、あろうことかヤマネコ様の逞しい腕を引いて、中に招き入れようとしてしまっていた。もしかしたら、奥に潜む“期待”も私をそうさせていたのかもしれない。

 戸惑っているようにもとれるヤマネコ様を中に招くと、その背後には特殊なメイクが印象的な、道化師の少女が立っていた。にやにやと楽しそうに笑っている。
 ヤマネコ様のお供、ツクヨミ様だ。ツクヨミ様もいらしたのだ。

「ツクヨミ様も!お久しゅうございます。」
「ねえ、ヤマネコ様。こいつのこと、ご存知なの?」

 「こいつ」などと失礼な示され方をしたのにも構わなかった。私はすぐに思い当たり、そうだ、屋敷の中では顔を隠していたのだから、ご存知なくて当然だ、尋ねて下さった事実に興奮して我を忘れていた、と納得して、改めて顔を上げてヤマネコ様を見た。

「そうですね、ヤマネコ様はご存知ないかもしれません。わたくしは。3年前まで、蛇骨大佐の下で剣を振るっておりました。幾度か、ヤマネコ様、ツクヨミ様にはお会いしております。」
「…あ、あの、ボクは…」
「…………。」

 言いづらそうに言葉を濁らせるヤマネコ様も意に介さずに、私は決心をして、言った。今しかない。今言わなくて、どうするというのだ。
「死海への遠征、お疲れ様でした。どうか、どうかわたくしめに、そのお話をお聞かせ願えませんか?」
「…!」

「あーあ、もう、こりゃーだめだ。」
 猫の目を丸くするヤマネコ様の隣で、ツクヨミ様が肩を竦めた。そうしてから肘で隣のヤマネコ様を小突いて、言ってやりなよ、と促す。
「これはあんたが言わないとだめなことだ。その口で、はっきり教えてやりな。」

「………あの、、さん…」
「はい、何でございましょう?」
 そのかつてのヤマネコ様には有り得なかっただろうやり取りも、私のこの気持ちを揺るがす程のものではなかった。

 死海へ遠征に行かれたひとり、ヤマネコ様が帰っていらした!
 その事実だけが、私には必要だったのだ。

「ボクはヤマネコじゃないんだ。少なくとも、あなたの言う、死海に遠征に行ったひとりではない。」








「そうで、ございましたの…」
 私はカップをコースターの上に戻した。
 テーブルの向かいには、ヤマネコ様が座っていらっしゃる。その隣には、ツクヨミ様が立っていらっしゃる。

「では、あなたはヤマネコ様ではないと仰るのね?そのように、ヤマネコ様そのもののお顔、お声をしていらしても、自分は、アルニ村のセルジュである。そう仰るのね?」
「………はい。」
 ヤマネコ様は、ばつが悪そうにしながらそう頷いた。どこか自信が感じられない。

「…ヤマネコ様は、そんなにも挙動不審にはお話なさらないわ。」
「!」
「あなたのように優しさを纏ってもおられない。気を遣ったような話し方もなさらない。それでも、尚、」
 ツクヨミ様が、感心したふうに私を見ておられた、ように私には見えた。
「あなたはセルジュだ、と仰るのね?」
「……はい。」
 セルジュは、今度はしっかりと頷いた。どこか自信が感じられた。

「それでも、ツクヨミ様は本物であるのですね?」
「まあ、そういうことになるね。…あんたの見てきた“ツクヨミ”とは、違う世界のツクヨミだけど。」
「…………。」

 死海へ遠征に行かれたヤマネコ様ではないセルジュと、死海へ遠征に行かれたツクヨミ様ではないツクヨミ様と。私はどこか混乱しながらも、必死に平静を保って話す。
「では、そのお二方は、いったい何の御用がおありになって、ここにいらしたの?」
さんは、“こちらの世界”のアカシア龍騎士団の騎士だったと聞いています。」

 こちらから尋ねると、おずおずとセルジュが切り出した。その遠慮だけがたっぷり詰まった話しぶりに、私は思わず「嫌だわ」と零した。

「嫌だわ、セルジュ。そんな風に遠慮なさらないで。私はあなたとそんなに年も違わない。身分もない。遠慮される理由なんてないの。…それに、とてもくすぐったいわ。」
 ずっと私がその立場だったから。

、と呼んでちょうだい。今はもう、その愛称で呼んで下さる人は、両親だけになってしまったの。」
 かつての龍騎士団メンバーは、今ではもう散り散りになってしまった。私のように、テルミナに残っている者などごく僅かである。
 …そもそも、生存者からして少ないのだ。そんな少ない人々は、自らの故郷へ帰ったり、廃れ行くテルミナを見ていられずにここを出たり、そうして、方々へ去って行ってしまった。

「…でも、あなたもそんな丁寧な口調だから、思わず。」
 猫の顔が照れたように笑った気がした。ヤマネコ様なら絶対にしなかった、自然な表情だ。
「わたくしのこれはお気になさらないで。これでも、よっぽど砕けているほうなの。昔は、よく注意されたものだったわ。」
「…ははは…」
「ああ、そういえば、居た気がする。四天王のカーシュに付き纏われて、それでも妙に嬉しそうにそして無駄に丁寧な口調でいなしていた兵士。」

「……それは、お恥ずかしながら、私のことだわ…」
 横から入ったツクヨミ様の言葉に、私は心なしか頬が熱くなるのを感じて俯きがちになった。
「へえ、あのカーシュと仲が良かったんだ…」
 意外そうにセルジュが口にする。私は少しばかり照れ臭さを感じながらも熱い頬のまま答えた。
「仲が良い、という表現が合うかどうかはわからないけれど…でも、とても良くして頂いていたわ。面倒見の良い方だったの。」
「へえ……」

「さ、ヤマネコ様。無駄話はそれくらいにして。」
 脇に立つツクヨミ様が促す。
「ん、ああ、そうだね。」
 “ヤマネコ様”と呼ばれたセルジュはそこで気づいたように私に視線を移して、一拍置いて決心して、言葉を紡いだ。
 その様子は本当にヤマネコ様とは思えないものである。心優しい少年のそれだ。

 そして次の瞬間に、立場は先程とはまるで逆転していた。セルジュが尋ねる側、私が尋ねられる側。そう、そしてその内容は、
「今日は聞きたいことがあって来たんだ。アカシア龍騎士団について。」
「………。」

「死海に遠征に行って、それで消息を絶った、って聞いた。…ボクたちは、今、死海へ行こうとしている。何か知っていることがあれば、教えてほしいんだ。死海のこと。」
「……死海へ、行こうとされている…?」
 私はまず、自分の耳を疑った。
 そして次の一呼吸の間には、テーブルから身を乗り出して、セルジュに問い詰めていた。

「あなたたちが?あの、死海へ?」
「うん。」
「…………。そう、なの。」
 深く息を吐いて、まず、気持ちを落ち着ける。

「目的があるんだ。ボクのこの姿を――」
「いいえ、深くはお聞きしないわ。…その代わり、私には、あなたにお話できることはない、と、はっきり言わせてちょうだい。」
 そして落ち着いた気持ちで、はっきりと言い切った。
 猫の表情が、揺れた。
 私は申し訳ない気持ちで目を伏せる。

「…ごめんなさい。ただ、私は何も聞かされてはいなかったの。私が知っているのは、騎士団のほとんどの兵が、――どころか、蛇骨様やリデル様も含むアカシアの人々が、3年前、死海へ遠征に行って、そこで消息を絶ったということだけ。それ以外には、私は何も知らないの。ごめんなさい。」
「……ううん、謝らないで。それでも、ボクたちのやろうとしていることに変わりはないから。」

「そっか、だから、さっき、はボクをヤマネコだと思っていたときに、死海の話を聞こうとしたんだね。」
「ええ。騎士団の人々が消息を絶ってから3年。最初こそ、生還を信じて僅かながらに活動をしていたのだけれど、パレポリ軍が来てからは、それに対抗する力も、残された私たちにはなくて、――大佐も四天王も居ない龍騎士は、呆気ないものだった。」

 あのとき程、自分の無い力が悔しくて悔しくて仕方がなかったときはない。カーシュ様が帰っていらすまでには、いずれは、いつかは、きっと。そんな先ばかりを見ていた私の歩みは本当に遅かったのだ。
 助けを求める民に何もできなかった。それなのに、テルミナがパレポリの監視下に置かれた今でも、テルミナの心優しい民は私を追放することなく街に迎えてくれている。

 今でも、悔しくて仕方がない。ただ、苦しむ民と共に、小さなことで笑い、小さな楽しみを見つける手助けしかできない自分が。
「…………。」


「――私は今でも、騎士団の人々が、四天王が、蛇骨大佐が、リデル様が、…カーシュ様が、帰って来て下さるのではないかと思っているのよ。そして、街を支配するパレポリを追い出して、廃墟となってしまった蛇骨館を取り戻して、また、以前のような明るいエルニドを取り戻せるのではないかと。
 だから、私はヤマネコ様が帰還なされたと思ったとき、期待してしまっていたの。死海へ行かれた他の人々も、生きておられるのではないか、と。」
「…………。」

 重い空気が流れる。

「…死海へ探しに行こう、とは思わなかったのかい?」
 そんな中、唐突にツクヨミ様が言った。
「そんな、滅相もないわ。死海は、閉ざされた地。私のような者を受け入れるはずがない。」

「行けるか、行けないかじゃなくて。」
 そして、黙って私の話を聞いているだけだったセルジュも口を開く。

「行けるか、行けないかじゃなくて。貴方は、探しに行きたい、とは思わなかったの?ただ、ずっと待っているだけのつもりだった?」
「………結果、私はここで、何もせず、ずっとお待ちしているわ。」
「そうじゃなくて!」

「…………。」
 何となく、セルジュの言わんとしていることが解ったから、尚のこと、私はそれを認めることができなかった。

 私には何もできなかった。苦しむ民を守るどころか、元気づけることも。


「………死海へ、一緒に行こう、。」
「ばかなことを仰らないで!」
 伸ばされた手を、私は振り払う。

「私は何もできなかったのよ!…死海へ赴くという人に、カーシュ様に、お供することも、この街を守ることも!
 いずれは強くなる、だなんて、ただの欺瞞でしかなかった。今、いいえ、あのとき、私には力がなければならなかった。それなのに、私には――っ!」
「それなら、どうしてだ?どうしてここにまだ、剣は、輝きを失わないままあるんだ?」
「…っ!」

 壁に立てかけられた、剣。カーシュ様に稽古をつけて頂いていたときから、騎士団の人々が去ってから、パレポリ軍がテルミナに来たときから、私が民を守れなかったときから、いいや、ずっと、ずっと、私の側にある。

 強くなりたい。民を守れる、人々の笑顔を守れる龍騎士でありたい。そう思って剣を手に取ったときから、私はずっと剣と共に生きてきた。

「……ボクには、ここで何があったのかも、貴方がどんな気持ちでいるのかも解らない。それでも、ボクには、貴方がとてもここで落ち着いていられる人には思えないんだ。諦めていられる人には思えないんだ。
 だから、ボクたちと一緒に行こう。」
「方法がないわ。あそこは閉ざされた地。何人たりとも受け入れない。セルジュ、あなたですらも。」
「それは解らない。それでも、死海はそこにあるんだ。存在するんだ。だから、きっと――」
「正気なの?あんな所へ本気で行こうだなんて、正常な思考の人間が考えることではない――」
「……ボクは、正常じゃないのかもしれないから。」
 そうしてセルジュは、悲しげに笑ったのだった。その表情を見ると胸が締め付けられる思いがした。

 ああ、彼は、本気なのだ。大きな運命の流れに翻弄されて、たくさんたくさん辛い思いをして、それでも、自分の姿を取り戻したいと思う。彼は本気なのだ。
 それなら、自分は?
 自身の力の無さを嘆いて、それでも剣は捨てないで、たった一人でも守れるように、必死に、剣を、自分を磨いてきた、いつか帰って来るかもしれないカーシュ様に自信を持って会えるように、例え“男の癖に弱い”騎士団兵じゃなくても会えるように、自分を鍛えてきた、私は?
 私は本当に、このまま、何もしないまま終わってしまうのか?
「(私のなりたかった“龍騎士”は――いや、私が今、願うことは――)」




「……行くわ。」
 私が今、望むことは。
「いいえ、私も行かせてちょうだい。死海へ、騎士団の人々が消えた地へ。
 私は真実を確かめたい。あの場で何があったのか、彼らはどうなってしまったのか。私のできることは、そこにある。」
 セルジュが安心したように表情の力を抜いた。そして穏やかな様子で隣のツクヨミ様に顔を向けて、全くもって今更のことだが、確認する。
「いいよね、ツクヨミ?」
「…全く、あたいに確かめるのが遅いんだよ。もちろん、あたいがヤマネコ様の決断に反対するわけないけどさ!」
 ずっと何も言わずに事の流れを隣で見守っていたツクヨミ様は、ふてくされたように言ってみせた。その表情にはどこかおどけたようなところがある。

「あんた、戦えるの?足手まといになられるのはごめんだよ。」
「……龍騎士として、精一杯剣の腕は磨いてきました。斧もそれなりには扱うことができます。
 足手まといになるようでしたら、構わずに置いて行って下さい。全力で追いかけますから。」
 そうだ、きっと、私にはこのほうが合っている。舞い込んでくるかもしれない希望をただ日々の悲しみに身を焦がしながら待つよりも、厳しく辛い道の中、ひとつのものを目指して走るほうが。

「斧、か…。なるほど。四天王のカーシュが使ってたのと同じだね。」
「なっ!」
 茶化すように言われ、私はつい顔を紅潮させてしまった。それがいけなかった。ツクヨミ様はにやにやと楽しそうい笑っておられて、私はできもしない反論をしようとする。けれども、開いた口からは意味の無い言葉が漏れるだけだった。
 …なまじ本当のことだっただけに、恥ずかしい。
「別にっ、ツクヨミ様の関わられるところではありません!」
「ツクヨミ、でいい。あたいはもう蛇骨の客人のヤマネコ様の右腕じゃないし、あんたの知ってたツクヨミでもない。敬語もいらないよ。」
「…え、ええ……はい…」
「これから一緒に旅する仲間なんだから、ね。」
 ヤマネコの顔のセルジュがまた笑った。本当に優しそうな笑顔の少年だ。




 こうして私はまた、武器を手に立ち上がった。
 二度目に背にするテルミナは、初めてのときとは違って、悲しみに沈んでいるように見える。
 それでも、私の心に悲しみはなかった。








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