人々の奮起は、私の思っていたよりもよほど早かった。
ダリオ様が呼びかける。すると、それだけで、テルミナの町の人々は立ち上がり、我先にと蛇骨館へと駆けつけたのだった。
私の小さな呼びかけには見向きもしなかった人々が、だ。
途中で在中パレポリ軍とのいさかいもあった。しかし現在のこの、安定しつつある不安定な均衡を壊すことは彼らにはできず、また最も大きな要因には、ヤマネコの姿のセルジュの言葉、さらにパレポリ軍人であるイシトの言葉があって、蛇骨館再建を目立って阻害されることはなかった。
私は今、HOME世界の蛇骨館に居る。蛇骨館再建に助力するためだ。
多くの人々の手により建物としての機能を回復しつつある蛇骨館に寝泊りし、朝起きては建物の修繕に力を貸したり、集まった子供達の面倒を見たり、そうしてから夜蛇骨館で眠る。
することは尽きなかった。ひとつ終わらせればひとつ始まって、後から後から仕事が追加される。
それはとても充実した時間だった。
リデル様のご提案により、騎士団再興の準備が整うまで、その時がくるまでは、蛇骨館は孤児達を受け入れることになった。
蛇骨様は苦笑しておられたし、カーシュもゾアもその提案には当惑ぎみで、唯一楽しんでおられるのは提案者のリデル様だけという状況だったが、この孤児達の受け入れはことのほかうまくいっていた。
多くの人々が蛇骨館に集い、協力し、ひとつのものを目指して取り組む。とても素晴らしいことである。
汗を流す大人達、共に遊び笑う子供達の様子を見ていると、アカシア龍騎士団再興も、そう遠い未来の話ではない。そう思えるのだった。
そして、私のこの漠然とした不安も、ゆっくりと、着実に、育ってゆくのだった。
「。」
「あら、ダリオ様。」
背中から声をかけられる。座ったまま振り返って、視線を上げて、ダリオ様を見る。
片手を挙げたダリオ様は穏やかな笑顔を崩さずに、私の座る隣へ同様にして座った。椅子も何もない、草原。エルニドの海と空が見渡せるだけの場所である。
「いつもいつも、お疲れ様。君の働きぶりには、みんなも、俺も、感謝してるよ。」
「お疲れ様です。……いいえ、感謝して頂ける程のことではございません。アカシアの龍騎士として、すべきことをしているだけです。今まで逃げてきた分も、私は皆以上に働かねばなりませんわ。」
隣のダリオ様に、語りかけるように、ゆっくりと、話す。
「それに、私こそ、感謝しているのです。貴方に出会えなかったら、私はきっと、ずっと、死ぬときまで、自分にとって都合の悪い現実から、目をそらしていたでしょう。」
セルジュに出会って、私は前に進みだすことができた。新たな可能性の存在を知って、その中で戦うことができた。
けれども、私が生きるのは、私が帰るのは、あくまでもここ、HOMEなのだ。カーシュが生きているANOTHERではない。……言葉にしたくない事実だ。
抱えた膝を引き寄せて、顎を乗せる。青い海を視界の端に捉える。
「……本当に、ありがとうございます。」
「――君は、俺と同じ世界の住人だったね。」
ダリオ様の言葉は、少々唐突なものであった。周囲には人は見当たらない。私とダリオ様の2人だけであった。
ダリオ様が騎士団内で特別親しくされていた方々、弟君のグレン様や、婚約者であるリデル様、幼き頃よりの親友であるカーシュ様に、そして同期の四天王であるゾア様やマルチェラ様、そして蛇骨様や多くの騎士団員、HOMEの世界の皆様は、皆、皆、逝ってしまっていた。
「ええ、そうですわ。」
「……俺が大切に思っていたものは、こちらの世界ではみんな失われてしまった。俺はずっと記憶を失っていたから知らなかったけど、君は3年間、その中で独りで耐えてきたんだ。少しくらい都合の良いものを見たって、誰も責めはしない。」
「でも、本当に辛い思いをしたのは私ではなくて、テルミナの民や、死海にてその生を繋ぎとめ止められてしまった、騎士団の人々です。…それに、責めて下さる人すら、もう、この世界にはいません。」
「…………。」
ダリオ様が言い淀む。結局、言葉は言葉にはならない。
私は失言だったと思い、慌てて顔を上げた。ダリオ様の、少し悲しそうな顔を見上げた。
「……申し訳ございません。」
「君が謝ることじゃない。…うん、は、少し気を遣いすぎだと思う。もっと自分勝手でいいんだよ。」
「わたくしはこれ以上ない程、自分勝手でございますわ。ダリオ様の仰るほど、気配りのできる女でもありません。そう仰るならダリオ様こそ、」
「解った、よし、もうそれ以上言わないでくれ。」
「………。」
ダリオ様はどこまでも思慮深いお方である。そんな方にこれ以上気を遣わせてはならないと、少々意地になって言い返そうとした私の目の前に、大きな手が差し出された。
視界が手の平で閉じられる。私は言葉を止めた。
「……俺は君の言う程、できた男じゃないんでね。少しだけ、言ってしまおうか。」
「え……」
戸惑う私に構うことなく、ダリオ様の言葉は続く。
「実は俺は、今、こうして話したり笑ったりできるカーシュ達との間に、何か埋めることのできない溝のようなものを感じるんだ。」
空気が停止した。
波の音も消えた。
その中でダリオ様の大きな手がゆっくりと下がって、私の視界は開けてゆく。そしてそこに現れたのは、いたずら気に笑うダリオ様のお顔だった。
私はそんなダリオ様を見た。見上げた。
「…………。」
「外見はあいつらそのものだ。思い出は、俺が記憶喪失だった3年間のことがないだけで……後はほとんど、同じだ。でも、俺は、そう、失った3年間だけじゃない……徹底的な見えない何かによって、あいつらとの間を隔てられているんだ。その溝が、隔たりが、少しだけ、悲しい。」
「…………。」
私の頬を何かが伝った。ダリオ様がそれを見てか、悲しげなほほえみをどこかへ消し去り、驚愕の表情を露にした。
「?……どうして君が、泣くんだ?」
「………だって、それは…」
一度流れ始めてしまえば、涙はまるでそれを当然のことのようにして、後から後から流れて止まらなかった。私はそれを拭わないし止めようともしない。
この気持ちは真実だ。拭いようのない、止めようのない、絶対的な真実となって私の前に立ちはだかる現実だ。
「……知っている人が、知っている人なのに、知っているはずなのに、違う。私の愛する人は私を知らなかったから、私はただそれを嘆くだけで済んだから……。私の愛する人は私を知っているのに、知っているはずなのに、違っていたら、どんなに悲しいんだろうって、そう思ったら、とても耐えられなくて…っ」
後から後から涙が流れる。私にはそれは拭えないし止められない。
鼻をすする。瞼を下ろすと、それに流された涙が溢れて零れた。
「…ごめんなさい、ごめんなさい。一番辛いのは私じゃないって、解っているんです……」
「そんなに気を遣わなくていいんだよ、。泣いてくれてありがとう。辛かったね。知っている人が自分を知らないのは、共有できる思い出が何一つないのは、辛かったね。」
「…それはダリオ様も同じですっ!同じであるはずの思い出だって、共に、同じ世界で体験したものじゃない。絶対的な違いがあるんです。カーシュはカーシュ様じゃない。……リデル様が愛したのは……貴方じゃない……」
「………ああ、そうだ。俺が愛したのはリデルじゃない。」
大きなふたつの可能性により完全に分かたれた事実を、ダリオ様が口にする。重く、重く、口にする。
私は涙ながらに言葉を続けた。嗚咽もなくただ時々鼻をすすって、頬を伝った涙が滴となって手の甲に落ちる。
「……私は私の可能性に会いました。確かに私は私でしたが、あれは私ではありませんでした。一言言葉を交わせば、小さな、ほんの小さなひずみに簡単に気付くことができました。決定的な何かが違っていました。だから、ダリオ様の哀しみが伝わる気がするんです。だから泣いてしまいました。ごめんなさい。」
ごめんなさい、ごめんなさい。謝っても涙は止まらない。止まることを知らない。
涙を流す私の中で、静かに、静かに、正体の知れない不安が首をもたげ、心を乱す私を嘲笑う。
「…辛かったね。」
首を振る。左右に。
「私は平気です。でも、貴方は辛い。」
「俺は平気だよ。もう独りじゃない。進むべき道が見える。」
私は顔を上げた。そうして、優しい優しいダリオ様を見た。
涙は止まらない。
「私も独りじゃありません。私にはすべきことがあります。」
涙は止まらないし止められないけれど、私は確かにそう言った。言い切った。
そしてそんな私の中で、静かに、静かに、私を嘲笑う不安が、しっかりと立ち上がって、形を成して、私の前に姿を見せた。