喜びなのか、悲しみなのか、私には判らない。
 夢にまで望んだその姿を見つけて、思わず走り出して、そして一歩、足を踏み入れた瞬間に、私は2つの衝撃に襲われた。
 白く輝く、街の道、建物。風にそよぐ、花屋の青リンドウ。溺れ谷を一望することのできる見張台に、高台から見守る蛇骨大佐の像。
 それは、私が知っている、そして私の知らないもうひとつの、テルミナの姿だ。遠くから影を見ることしかできていないが、蛇骨館だって、確かに在った。
 ひとつの可能性の下では、――可能性のひとつに過ぎないのだとしても、確かに、存在している!生きている!
 そのことが本当に私は嬉しかった。
 嬉しかった。


 しかしそこには、私がよく知っている、そして私の知らないもうひとつの、絶対に望んではいなかった、それだけは見たくなかった、ひとつの事実があるのだった。
 青を基調とした、無機質な軍服。ただひとつ、引き金を引くだけで簡単に人の生命を奪ってしまう、銃。見たくなかった。これだけは見たくなかった。
 その軍靴の立てる音を聞けば、朝起きる度に、ああ、これが現実なのだ、と嫌でも認識させられてきた。街の景観に構わず兵器を搬入して、そして何の慈悲もなく、街をずっと見守ってきた、住人の心の拠り所だった蛇骨大佐の像を壊して、そして人々の笑顔を奪った、パレポリ軍。
 パレポリの軍人が、居た。街に乗り込んで来ていた。




「…そうか、アカシア龍騎士団の不在を狙って…」
 セルジュが呟く。彼がヤマネコに姿を奪われたとき、龍騎士団はほとんどの兵を動員して死炎山への遠征をしていたという。
 まさに、私が一度経験したことそのものだ。騎士団はほとんどの兵を動員して死海への遠征をして、そしてその不在を狙ってパレポリ軍は攻めてきた。
「パレポリの者どもめ……ッ!」
 ギリ、と、感覚が薄れるまで奥歯を噛み締める。
 私がこの3年間、憎み続けてきた敵が、またひとつの可能性をも食い潰そうとしている。それが、とても、憎い。

!」
「!」
 不意に肩に重みが乗って、私は無意識のうちに腰の剣の柄に伸ばしていた手を引いた。隣を見上げるとネコの顔が私を見ていて、大丈夫だという意を示すため、私は笑って見せる。力がうまく入らなかった。
 すぐに頬から力が抜けて、私は一番気にかかっていたことを尋ねていた。
「…カーシュ様は…こちらの騎士団の方々は……今はどこに…」

 こちらの世界では、セルジュの姿を奪ったヤマネコが我が物顔に闊歩していた。セルジュの故郷であるアルニ村は、実質避難しているだけなのだが、まるで村人が皆消えてしまったかのように静まり返っていた。かつて私の生まれた世界で尋ねた際には、あんなにものどかで、温かな村だったというのに。

「……わからない。でも、生きているのだとしたら、きっと影を潜めて、反撃の機会を伺っているはずだ……」
 白い石畳を上って、街を歩く。


 歩くままに入ったエレメントショップの店員の声には、どこか元気がない。ネコ科の亜人の姿におののく少女の両手を握って、「大丈夫、我々龍騎士はパレポリなどには屈しない」とだけ言って、何も買わずに外に出る。

 一度戦うことを諦めてしまった私の口から、そんな言葉が出るのもこっけいなものだな、と思った。
 しかし、一度戦うことを諦めてしまった私だからこそ、もう、諦めない、パレポリなどには屈しない、と断言することができるのだ。

 大丈夫、きっと、こちらの騎士団は無事だ。古龍の砦は難攻不落の要塞である。人を拒むものでは、ない。
 そして私は、こちらの世界に来る道中、あまり深くは聞かなかった、セルジュのこちらの世界での話をたくさん聞いた。その話から考えれば、きっと、ヤマネコの目的は騎士団の殲滅などではないはずだ。そして死炎山で剣を交えた四天王の三方とも、古龍の砦では顔を合わせてはいないという。そして古龍の砦は今も尚、健在だという。

 大丈夫だ、大丈夫。私は必死に騎士団の方々が無事な理由を脳内に並べ立てて、自身を安堵させようとしていた。

 ……蛇骨大佐のことは、極力、今は考えないようにしている。考えれば不安に押し潰されてしまう。力を失くしてしまう。今はただ、とにかく、自分にできることを、自分の力になることを。




 セルジュ達はとあるバーに入った。ひとまず情報収集をするためにである。
 しかし、意図に反してそこには客は居なかった。皆、パレポリ軍を恐れて外出は避けている、ということだろうか。
 しかしカウンターに店員は居た。3人はひとまずカウンターに向けて足を進めようとして、店員がその中にネコ科の亜人の姿を見つけて、あっと驚いたように口を開いた。

「あんた!今開けるからこっちに!」

 その言葉の直後に奥に姿を消して、そしてカウンター隣の扉から錠を外すような音がする。
 私は全く事情が飲み込めず、またそれはセルジュもツクヨミも同じなようで、目を丸くして顔を見合わせた後、とりあえず店員の言葉に従って扉を開けた。

「さっ、右の壁から、中に!」
 続けて促される。
 右の壁。店員が立ってい右側には、何もない、ただの壁面。

 半信半疑でその前に立つと、どうやらその壁は仕掛け扉になっているらしかった。一見ただの壁であるが、とある点に力を込めると奥の部屋へ続く扉が開く。
 セルジュは奥の部屋へと足を進めた。次いでツクヨミ。

 私が後を追おうと足を踏み出した直後に、大きなネコの背中が、警戒した様子で、一歩後退した。道化師の背中がその隣に軽い足取りで飛び出して、私からは中の様子は完全に見えなくなった。
 会話をする声が聞こえる。セルジュの声と、ツクヨミの声と、それと、後ふたつ。
 “後ふたつ”のうちのひとつをしっかりとこの耳に聞きつけたとき、私は無我夢中で飛び出していた。
「カーシュ様ッ!!」




 触れることができる。あたたかい。
 ぎゅっと力を込める。人の肌だ。
 流れる髪は空気に揺れる。
 赤い瞳が私を見ている。私も赤い瞳を見ている。
 ゆっくりと開けられた口からは小さな声が漏れる。
 私はそれを聞くことができる。


「カーシュ様っ!お会いしとうございました!」
 しっかりとその背中に手を回して、胸に頭を押し込んで、絶対に離さないように
カーシュ様を抱き締める。
 この匂いだ。カーシュ様のものだ。間違えるはずがない。

 生きていらっしゃる!カーシュ様は確かにこの世界で、生きていらっしゃる!
 ただの可能性?そんなもの、関係ない。カーシュ様が生きている。それは間違えようのない事実だ。

 私は一度手を伸ばして身体を離してからカーシュ様の眼前に迫って、赤い目に言った。
「カーシュ様、でございます。もうひとつの可能性の世界より、あなたや騎士団の方々に会うべく、参りました。」
 カーシュ様はしばし疑うような目で私を見ていたが、何か合点がいったのか、改めて私を見て、そしてこう口にした。
「………誰だ?」




 カーシュ様もゾア様もマルチェラ様も蛇骨様も皆様も生きていらっしゃることとかアカシア龍騎士団は混乱の中に落とされていることとかセルジュのこととかこれからのこととか色々なこととかリデル様を助けに行かねばならないこととかリデル様のこととかリデル様のこととかをセルジュとツクヨミは聞いていたのだけれど、
 私は絶対にもう邪魔はしてはならぬと黙っていたのだけれど、
 半ばそういった配慮をする理性だけは残っていたものだから、中途半端にものを考えてしまって、結局どちらつかずになってしまって、私はただ無意味にその場に立っていた。

 事情は全く判らなかったけれど、今自分のすべきことは判っていたから、私は黙ってその場に立っていた。
 時々、本当に時々、目がカーシュ様やカーシュ様やゾア様のほうを向いてしまうのは止められない。


「だが、それより先にオレたちはリデル様を救い出さなければならねぇ。今やパレポリ軍の本部と化した館に捕らわれているらしいんだが…」
 パレポリめ…!我ら龍騎士の館をその汚い足で踏むとは、何たる傲慢!許されることではない!

“こちらの世界のボクは死んでしまっているけれど、は生きているよ。ボクたちは会ったんだ、蛇骨館でキミに。あのときは変装を見破られて大変だったな……”

 こちらの世界でも私は確かに生きている。そして龍騎士団に所属している。
 そして今、私の視界に立つカーシュ様は、間違えようがない、他の誰でもない、カーシュ様だ。
 それなのに、カーシュ様が私のことをご存知ないのは、なぜ?
 私はただ無意味にその場に立っていた。

「ここは一つ、手を組もうじゃねぇか!」








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