私の朝は他の者よりも早く始まる。
 ベッドから起き出して、他の者を起こさないよう、細心の注意を払って部屋を出る。普段の装備は完了させて。

 蛇骨館の入浴施設を使用するためだ。この時間帯ならば、使う人間が少ないことは知っていた。
 龍騎士を志す女性、というものは、男性に比べて圧倒的に少ないどころか極希なため、蛇骨館にある入浴施設は、シャワールームこそ個室になっているものの、大浴場、脱衣室には男女の区分けがなかった。
 蛇骨館にいる数少ない女性、マルチェラ様やルチアナ様、リデル様などはいずれも相応の地位を持っていらっしゃる方ばかりだ。彼女らには、完全に個別に入浴施設が与えられている。
 アカシア龍騎士団は女人禁制ではない。しかし、現状として、女性の数が少ないのだ。
 だからおそらく今の騎士団では他に例を見ないだろう、女性下級龍騎士である私は、こうして誰も使用しないような時間帯に入浴しなければならない。


 とはいっても、早朝で誰も使用する者のない大浴場を独占できるというこの状況は、趣味のひとつが入浴である私にとっては、実に素晴らしいものであった。
 私は騎士団入団前は、自宅の、とても一般階級の人間には目にかかることすら許されないような大きな浴場を使用していた。入団以降は男性から姿を隠して質素な施設で耐えなければならないだろうと、突然のその生活様式の変化を覚悟していた私だったが、不幸中の幸い、私はこの素晴らしい権利を手に入れていた。
 今日も今日とて明るい高揚した気持ちで、入浴施設へと向かう。

「さあ、大浴場よ!今日も私を受け入れておくれ!」

 この時間帯に入浴施設を利用する者に、私は出会ったことがない。私は人が居ないのをいいことに、普段から我慢に我慢を重ねて本質を隠してきたストレスを少しでも発散してしまおうと、浴場の扉を開け広がる湯気の中に叫んだ。
 叫んで空気が固まって、私はその異変に気付いた。……む、湯気?

 浮かんでくる最悪の可能性に気付くよりも先に、浴場にあの独特の、豪快な笑い声が響き渡る。

「どいつだが知らねーが、朝っぱらから威勢がいいじゃねえか!先に失礼してるぜ、遠慮せずに入って来い!」
「そっ、その声はカーシュ様ではありませんかっ!」

 そう、その声の主はカーシュ様だ。アカシア龍騎士団四天王、女の私でさえ憧れてしまう程、しなやかに流れる蒼い髪、吸い込まれそうな程に深い赤い瞳をした、斧使いのカーシュ様。
 他でもない私がただひたすらに憧れるその人だ。その人が、今、この奥に。入浴して。


「四天王だからって気にするこたねーよ!
 って、ああ、その声は“おまえ”か。だったらわざわざ言ってやる必要もないな、入れ入れ!」


 四天王の方々には個別に入浴施設が与えられている。しかし、ここ、主に我々下級兵士が使う大浴場は、決して彼らの使用が禁止されているわけではなかった。
 とりわけ、部下の信望も厚いカーシュ様のことだ。きっと、普段からこうして、我々の使うのと同じ施設を利用し、汗を流し、共に語らい、部下との親睦を深めていらしたのだろう。

 私は逡巡した。カーシュ様がこの中にいる。いらっしゃる。
 私はまだ、鎧も、甲冑も、何もかも身につけている。普段、例えばカーシュ様に稽古をつけて頂くとき、例えば遠征に向かうとき、例えば町に出かけるとき、龍騎士としての全ての活動を行うときと、何一つ違わぬ装いをしている。
 私は逡巡した。しかし決断は、いや、決断も、決断してからの行動も、実に早いものだった。


「お背中、流して差し上げます!」








 鎧姿のままがっしゃんがっしゃん音を立て、湯気の中、カーシュ様のいらっしゃる方へと向かう。走る。
 すると、シャワールームとは別に設けられた、個別に身体を洗うスペース、すっかり曇りきってしまった鏡の前に大きな背中を発見した。
 普段だったら絶対に見ることなんかできないその姿に、鎧の中で私の感情は高揚する。胸が大きく高鳴り、長らく続いた男性に囲まれての生活の中で鍛えられたはずの感情も、恥ずかしさや照れといったようなものに締め付けられる。きっと今、私の頬は真っ赤だ。

 失礼しますと言い置いて、がしゃんがしゃんと鎧の立てる音を反響させながら、背中を流すための動作に入る。
 するとカーシュ様が、こちらに顔は向けずに、少しばかり怪訝そうに声をあげた。

「ん、鎧付けたまんまなのか?…無粋なヤツだな……」
「もっ、申し訳ございません!しかしこれがないとわたくし、カーシュ様の前に立ってはいけない気がして……」
「ハハッ、普段のヤツか?まったくお前の考えてることはわかんねーよ。せっかく素顔が見られると思ったのに。」
「それは、ゾア様がお顔を人目に晒されないのと同じであります!わたくしにも深いふかーい事情があるのであります!」
「なんかそれ、ソルトンみたいな口ぶりだぞ……」
「あ、」

 と、口元を覆う。

「……感化されてしまったのかもしれません。最近はお二方と会うことも多いので…」
「まーた館内で騒ぎ起こしたのか?飽きないなー。」
「それは、わたくしにもシュガール様ソルトン様にも、譲れないものがあるからなのです!わたくしとて直属の部下ではないものの、誰よりもカーシュ様を慕っているつもりです。」
「そいつはよーく解ってるよ。もちろん、2人もな。それからさらに、その気持ちはあいつらも同じだ。そしてさらに、オレはそのこともよーく解ってる。」
「…………。」

 カーシュ様のお心遣いを嬉しく思いながら、私は動作を進めた。
 手甲越しに掴んだ濡れ手拭をカーシュ様の背中に勢いよく突撃させたところで、ぎゃっという大声が浴場に響き渡り、カーシュ様の両の肩が大きく跳ねた。

「って、つめたッ!いたッ!おまえっ、いくら何でも装甲つけたまんまはねーだろ!」
「もっ、申し訳ございません!しかしこれがないとわたくし、カーシュ様の前に立ってはいけない気がして……」
「だいたい風呂場に鎧来たまま入るってバカか!?蒸れるしサビるだろ!」
「……ハッ。確かに…」
「だから脱げ!別にオレはおまえの素顔になんてとやかく言わねーから!」
「それはできません!」
「強情なヤツめ……」

 カーシュ様のお声が一段と低くなる。私は一瞬びくりと身を竦ませて、何かしらの嫌な予感を感じたから両拳を握る。
 カーシュ様の広い背中から、それだけで敵を圧倒してしまう程の“気”が、感じられる。


「いいか、脱げ!脱がないならオレが脱がす!」
「無理です!わたくしは脱ぎません!」
「なら、わかってるんだろうな……?」
「……臨むところであります。このわたくし、今日こそカーシュ様には負けません!」
「良い度胸じゃねーか。そう言い続けて今日まで一度も勝ったことのないおまえにしてはな。」
「…………。」
「…………。」

 自然と、双方無言になり、そして立ち上がるのは同時である。すると壁際には立っていなかった私が背を向けて歩を進めて、広い広い浴室の中、一定の距離を得る。
 そしてどちらともなく、振り返る。少し離れた、よく知った距離にカーシュ様の姿を私は確認する。
 双方構える。同じ騎士団内で同じ秩序のもと身につけたものだから、その構えはどこか似ていた。


「……参ります!」


 一声あげて、そうして浴室の床を蹴るのは2人同時だ。
 しかし、そうしてその力が空回りして転んだのは、そのうち一方だけだった。

 がしゃーん!と、大仰な音を立てて、鎧が硬い床に倒れこむ。見事に顔から。

「って、オイッ!初っ端からそれかよ!大丈夫か!?」




 ……ああ、こんなときにでも部下の心配をして下さるカーシュ様は、本当にお優しいのですね。
 立ち上る湯気と蒸気と湿気を含んだ温度にそろそろ負けそうになっていた私の意識は、強すぎる衝撃によっていとも簡単に私から離れてゆく。
 最後に掴み取ったのは、そんな、その場にあるまじき感動だった。




 わたくし、は、アカシア龍騎士団のひとりの龍騎士だ。もう入団してから3年程になるというに、まだ部下の一人さえ持てない、乗龍もできない、下級兵士である。
 私は幼い頃よりの憧れであった龍騎士になった。騎士団に入団した。そして、憧れの方との面会を為した。日々アプローチを続け、こうして時にはお話し、直接手合わせをして頂くくらいには、なれた。
 私は幸せだ。毎日がとても楽しい。
 こんな楽しい毎日が、ずっと、ずっと、続けばいいなと、思っている。








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