しばらくは天下無敵号に滞在することとなったマルチェラ様、とある小島のラディウス殿を訪問なさるゾア様と別れ、カーシュ様は小舟を借りてエルニド本島に戻ることとなった。
 私はそれに同行することになった。
 私は私の兜を被った。








 兜の修復は、まあ、率直に申し上げてしまえば拙いものだった。ところどころ歪みが生じているし、これで頭部を保護することができるのか、危うい。
 だが、切り口が非常に鋭利で滑らかだったのが幸いしたのだろう、応急程度の処置でも何とかその役目を果たすことができていた。
 そう、私の素顔を隠すという、その役目を。

 私にとってのこの兜の役目はそんなものだ。元より、この旅の目的は戦うことではなかったのだから、防具としての機能は今回は特に、重視していない。
 私はひとりのアカシア龍騎士団兵として、カーシュ様に付き従うのみである。


 本島に降り立ち、私達はまずヒドラ沼に向かうはずだった。カーシュ様がまずはここ、と決めて道を進み出したのを、私が止めた。
 ヒドラ沼には毒素が充満し、そのものが既に人間を歓迎しない土地である。また人間を襲うモンスターも多く出現する。明確な目的があるのでないならば、足を踏み入れるべきではない。
 私はその建前を武器にカーシュ様を止めた。カーシュ様自身、その場には特に思い入れはなかったようで、結局そこには立ち寄らないことになった。
 私はそのことにこの上なく安心した。
 まだ他にも、訪れるべき場所はあった。

 次に向かったのは、ヒドラ沼の東に位置する、特に見るべきところがあるでもないはずの滝だった。そこは“龍神の滝”と呼ばれる。
 カーシュ様はなぜかそこを訪れる地に選び、私もなぜか、それには反対しないでいた。そこは特に見るべきものもないはずだったが、危険な場所でもなかった。
 事実、何もなかった。ただの滝であった。
 何かを供えるための場所なのか、ほこらのような空間もあるにはあったが、それだけであった。何か心に響くでもない。
 逆に言えばその何もない空間が違和感であるのかもしれなかった。だがそれらは元々私達の心にあって然るべきもので、私達を疑念に駆り立てるまでには至らなかった。
 私達はその場を去った。次の目的地はアルニ村である。


 アルニ村は良い所であった。静かな中にも人々の温かみが溢れていて、初めて訪れる地なのにとても懐かしい。居心地が良い。
 村人とたわいもない話をして時間を過ごす。そうしているうちに、日が傾く。
 それでも私は、いつまでもこの村から立ち去りたくない気がしていた。

 そんなことを心の奥で思いながら村を歩き、私はふと隣のカーシュ様を見上げる。
 カーシュ様は誰かを探しているようだった。その様子は、村に入ったときからずっと続いている。
 ずるずると帰る時を引き伸ばしながら、私達はふと村の隅に位置する桟橋へ行く。そこにも村人が居た。
 子供達が元気に海で遊んでいる、とてものどかな光景がそこにはあった。

 私達が橋を進むと、そこに立っていた少女がこちらに振り向いた。夕焼けに似た色の髪をまっすぐに伸ばして、いかにも快活そうな村の少女であった。彼女は子供達の面倒を見ているようだった。
 少女の、こんにちは、あなた達テルミナの人?という言葉から会話が始まり、他の村人と為したそれより長く続く。
 どこかで何かが通じるものがあったのか、初対面だというに、会話は弾んだ。カーシュ様の表情もどこか明るい。

 少女の名前はレナといった。アルニ村に暮らしていて、時折こうして村の子供達の面倒を見ているのだとか。
 私はレナに尋ねる。
「この近辺に、どこか訪れるような所はありませんか?」
「うーん……そうねえ。あなた達東から来たんでしょう?だったらヒドラ沼や、滝はもう見たでしょうし……。トカゲ岩や、オパーサの浜はどうかしら。」
 レナが懇切丁寧に、それらのあまり私達には耳慣れない場所の説明をしていく。私はそれをうんうんと頷きながら聞いていく。
 すると今度はカーシュ様が質問なさった。
「なあ、ここに来るときに見えたんだが、西に見えた岬には何かあるか?」
「…………。」
 するとその途端、レナの表情が暗く傾く。カーシュ様はすぐに、しまった、という顔をして質問を取り消そうとしたが(参考程度に聞いたまでだったので、答えが得られないならそれはそれで別に構わなかった)、レナは何でもないように首を振って、答えた。
「……あのね、あそこには――」








「……何なんだ、これは…」
 カーシュ様の言葉の縁で、海鳥が鳴く。風がその音と共に潮の香りを運ぶ。
 何かに誘われたように、彼の指が目の前の石に触れた。面をなぞる。潮風に晒されそれでも残った文字が、私達の意識を遠い記憶の海に誘い込む。


 我らが最愛の息子“セルジュ”


「セルジュ。」
 カーシュ様が読み上げたその名前は、すとんと私の心に入ってきて、落ち着いた。どこか馴染みのある、懐かしい名前。聞いていて胸が安らぐ。
 私はあるはずのない思い出を思いやって、遥か彼方に願いを馳せた。私はそうだった。
 けれども私がちらと隣を見上げれば、カーシュ様は違う。
 カーシュ様が口の中で小さく、セルジュ、と呟くのだけが私にも分かった。だがそれ以降の彼の感情の起伏は、彼が彼の内心でどれだけの荒波に揉まれたのかは、私には分からない。
 セルジュ。彼はもう一度呟いて、そして目の前の形としての文字を何度もなぞる。確かめるようにしてなぞる。そしてその指が墓に刻まれた一連の文字を追い終わって、最下部にまで到達したとき――


「ふざけるなッ!」


 カーシュ様は憤慨して立ち上がった。ふざけるな!何度でも同じような意味の言葉を繰り返しながら、意志を持たない石に怒りをぶつける。
 そして彼は言ったのだった。

「小僧が――セルジュが死んだだと!?そんなわけねえ!!」

 私は驚きに目を見開いた。だが私の動作はしょせんはそんなもので、後はただ黙ってカーシュ様の挙動を見守る。
 ひとしきり無機物に向けて怒りを発散されたカーシュ様は、やるせない様子でまた膝を折ってしゃがみこむ。私の隣に。
「これが“可能性”ってやつなのか――?バカにしてやがる。」
「…………。」
「セルジュは死んでねえ。オレはこの目であいつに会った。オレはこの口であいつと話した。嘘じゃねえ。そうだろ!?」
「…………。」
 そこでやっと、カーシュ様の意識が石から私に向けられた。私は落ち着いた面持ちでただ頷いてから、言った。

「私も存じております。セルジュという少年のこと。深い色の青い髪に、赤いバンダナが印象的の――」
 これは覚えているのではない。知っているのだ。私はセルジュのことを知っているのだ。
 けれども、私は彼とはあまり親しくはなかった。旅の最中は、ただおまけのように船に滞在していただけだったから――
 むしろ私よりも、“彼女”のほうが、彼とより接していて――


「そう、そいつがセルジュだ。確かにセルジュは存在している。なのにそれが何故――?」
 確かに私達はセルジュのことを知っていたが、だが、どこかで肝心なピースが抜けていた。それは確実に分かっているのに、いったい抜けているものが何なのか、それが分からない。
 なぜ私はセルジュのことを知っているのだろう。彼女が、私ではない私が、セルジュと親しくしていたから?
 けれどもその曖昧で不可解な部分について考えようとすると、まるで最初から存在しないものを頭の中だけで作り上げようとするときのような、じれったさ、もどかしさに心が塗り潰されてしまうのだ。
 いったい何なのだ。私には何も分からない。

 分からない中で私が頭を抱えていると、視界にふとカーシュ様の手が過ぎった。それを改めて認識する間もない中で、私の頭部はしっかりと彼の手に拘束されてしまう。
 そして無理やりに彼のほうに向かされた。カーシュ様と間近で、真正面から、見つめあう。確かに彼は彼の目で私の目を見ていた。
 突然何を、と問いかける暇もなく、私の耳元で金属音が。あの、兜を正式なやり方で外すときに聞こえる金具の音が。

 かちゃかちゃと聞こえるそれは長くは続かなかった。だが、私がそれに反抗する余地は十分にあったはずだった。
 かちんと何かが解ける音を最後に、カーシュ様の手が一度離れる。そして彼は言った。

「……、おまえは女だ。」

 カーシュ様の手は、もう、戻ってはこない。ただ言葉だけが事実を突き付けて、それ以上カーシュ様は私を導かない。
 私は私だ。だから私は自分で兜を外した。自分の手で。そしてカーシュ様を見た。
 私は私の目でカーシュ様を見つめた。それはとても、清楚で可憐なしぐさではなかったけれど。

「……初めて、ではないのですね。以前にもこの姿でお会いしました。」

 ずっとずっと、何年も怯えてきたこの瞬間が今、私の目の前にある。だのに私の気持ちは、これでもかとばかりに落ち着いていた。
 淀みのないすっかり綺麗な気持ちで、私はカーシュ様のすぐ目の前に座っていた。

 ――では、カーシュ様は?


「……、セルジュは?セルジュはいったいどうしたんだ?」
「……!」
 私の両肩に、カーシュ様の両手が触れる。しっかりと、強すぎる力で、肩を押さえられる。揺さぶられる。
 カーシュ様は目の前の私の目を見ていた。見ていたのだけれど、でも、本当にそのときカーシュ様が見ていらしたのは、“私”なんかではなかった。

 私の大好きな、綺麗な赤が強すぎる視線を送る。でもその先にあるのは、私ではない。
 彼の目の先に居るのは、“”。清楚で、可憐で、気品と情熱に満ち溢れた美しい女性。

 カーシュ様は既に私を見てはいなかった。
 カーシュ様が話しかけているのは私ではなかった。カーシュ様が問いかけているのは私ではなかった。


「なあ、。セルジュはいったいどうしたんだ?おまえなら知っているだろう。」
 私は首を横に振る。
「わかりません、わかりませんわ。わたくしはセルジュ殿の消息を知りません。」
 それでもカーシュ様は私などを見てはいなくて、その事実が私にはとても悲しかったから、私は言い直した。
「私には、セルジュ殿の消息は知りえるところではございません。カーシュ様もご覧になったでしょう、この墓石を。これは紛れもなく、アルニ村のセルジュ少年のものです。セルジュ殿はお亡くなりになったのです。」
「違う!」

「そんなはずがない、オレはあいつを知っている。あいつと旅をした。それにはおまえも一緒だったはずだ――」
 カーシュ様が旅をしたのは、あの夢のような時間を共有したのは――私ではない。確かにそれは私だったかもしれなかったが、私ではない。私はカーシュ様と旅をしたことなどない。
 私は首を振った。何度も何度も、横に首を振って、否定の意を示した。
「違います!私はカーシュ様と旅をしたことなどありません!私は、ただ――」


 そのときだった、私とカーシュ様、どちらのものでもない大声が場に飛び込んできたのは。
 少女のものらしい快活でよく響く声は、カーシュ様の両手の力を緩めるだけの力を持っていた。

「――こらッ!そこのあなた!」

 見ると、夕焼けの中に一人の少女が立っている。日の沈みかけた赤い空に似た色の髪を真っ直ぐに伸ばしている。
 レナだった。

 レナは毅然とした様子でつかつかとこちらまで歩み寄ると、カーシュ様の肩をどんと押して、私の肩をそっと支えて、私とカーシュ様を引き離した。
 そしてじっと私の目を、ここに居るほうの私の目を確かに見ると、優しくほほえんだのだった。

「だいじょうぶ?ここにはモンスターも出現するけど、怪しい男も出るみたいだから、気をつけてね。」
「……オレは別に怪しい男じゃねえッ!」
 カーシュ様が体勢を持ち直し、レナに食って掛かる。一方の彼女はすました表情で彼に向き直って、べっと舌を出した。
「どう見ても怪しいわよ!こんな人気のないところで、嫌がる女性の肩を押さえてるだなんて。」
「あのなー!」
 声をあげるカーシュ様をさらりと受け流し、さ、行きましょと、レナは私の肩を押して歩き出す。私はひとまずレナについて立ち上がって、カーシュ様を一度振り返って、そしてレナを引き止めた。

「あ、あの、レナ……。その、本当に、あの方は怪しい方ではなくて…」
 おずおずと切り出す。するとレナは私の予想に反し、至ってけろりとした様子で言ったのだった。
「知ってるわよ、上司なんでしょ。」
 唖然とする私に「でも」と、続ける。
「あなたが困ってたのは事実。違う?」
「あ……」
 それは覆しようのない事実だった。
 レナは続けて言う。
「あなた達のこと、気になっていたのよ。もう日も暮れる頃だし……。今日の宿、見つけていないんでしょう?
 うちに泊まっていって!」








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