カーシュ様が歩く後ろを私は歩く。決して置いてゆかれないように。
 何度も何度も、いつだってどんなときだって繰り返してきたことだというのに、私の心はずっと沈みっぱなしでいた。どんなにもがいても、私の身体が前へ進んでも、この心が浮上することはない。
 ただ、歩く。彼の行動の阻害にならないように。

 いつしかカーシュ様は、一向に隣に並ばない私を心配してか、いつもみたいに豪快に笑って私の手を引っ張ってくださるようになった。
 どれだけがんばっても変わらなかった私の心は、それだけでいとも簡単に引っ張り上げられてしまう。
 カーシュ様の手は魔法の手だ。私は彼の簡単な一言、ささいな行動ひとつだけで、幸せによって昇天してしまいそうになったり、悲しみによって消滅してしまいそうになったりできるのだ。

「いったいどうしたんだよ?おまえらしくもねーな!いつもみてーに、元気すぎるくらいにオレのうしろをついてこいよ!」

 その言葉は私の沈んだ心を浮上させ、ついでにいらないものまでも呼び起こしてしまった。つぎはぎだらけの兜でも、表情が隠れていてよかった。私はそれに隠された中でぐっと力をこめて、涙をこらえた。
 カーシュ様の、部下である私に向けられる飛び切りの笑顔。それは、私がいつしか脱することを願うようになっていた日常、変わらない日々、恒常的に続く私の世界の全てだった。それはどんなときだって尊く輝いて私の目の前にあったというのに、私はそれをのけてぶら下がった見た目きれいな可能性に惑わされて、愛する気持ちを忘れていたのだ。
 好きです、大好きです、カーシュ様。「だから」一生あなたの後を走らせてください。そしていつか、あなたの背中を守らせてください。

 結局こらえきれずに、私は兜の下で涙を流した。それでも兜の外では、“カーシュ様の部下”であることを絶対にやめない。








 潮騒に囁かれて、慣れない環境の中私は自然に覚醒した。身体を起こして目を開けるとすぐに目に入ってくる、アルニ村の家の中の風景。
 テルミナに居てはあまり見ることのないような郷土品が並べられ、独特の温かみのある雰囲気をかもし出している。ああ、懐かしい。
 すぐ近くの海から響く波の音に耳を済ませて、まだ太陽すら顔を出さない早朝時刻、私はまるで母に抱かれているような気分を感じる。
 夢を見ていたようだった。ある一線、私の覚醒という名のそれを境に、私の夢の記憶は遥か彼方、決してての届かないような高みに昇ってしまう。
 しばらくその体勢のまま固まってその思いに浸って、私は今度こそ目を覚ました。

 先程までの自分を顧み、夢のような気分を振り払うためにふるふると首を左右に振る。
 しばらく膝を抱えて潮騒に意識を集中させてみたりもしたけれど、このままではどうにも駄目だと判断したから、私は寝床を抜け出して外へ出た。




 レナの家を出たすぐ前で待ち構えていたのはカーシュ様だった。ちなみにカーシュ様は、レナによって彼女の家の隣の、かつては“セルジュ”という少年が住んでいたという家に宿泊することになっていた。
 私はその姿を認めるや否や、胸を一度だけどきりと大きく弾ませて、思わず階段を下りる中途で固まってしまった。
 私は、私にはもう、絶対に、“”として振舞うことなんてできない。そして“”として見られることにすら耐えられない。
 私はわずかばかり首を左右に振って、後退しようとした。できなかった。そうすれば私はまた家の中に入ることになる。

「な、何かご用ですか、カーシュ様……」
 恐る恐る尋ねると、カーシュ様はただ黙ってとある方角を親指で示すだけである。彼が示したのは、アルニ村の端、海へ続く桟橋のある方。
 私がもう泣き出してしまいたい気持ちで戸惑っていると、カーシュ様は口を大きく動かし始めた。何かを訴えようとしている様子が伝わる。
 その口の動きをよーく観察して、聞き取れた言葉は「うるさい」とか、「いく」とか、「おこす」とか、そういうもの。
 それらから私は遅ればせながらようやく判断に至った。促されるままに階段を下りて、カーシュ様と共に桟橋へ向かう。




 なるべく住居から離れて桟橋の上に立ち止まり、私はカーシュ様と並ぶ。
 どきどき、おろおろ、あたふた、他にいったいどんな擬態語を私に当てはめればいいだろうか。私はただカーシュ様の隣に立っているだけで、彼の言葉を待つ以外、他に何もできなかったのだ!

 けれどもさすがは私の尊敬するカーシュ様、とあってか、彼は私にそれほど長くの待機時間は要させはしなかった。
 カーシュ様はついに行動に出られた。私に真正面から向き直り、私の両肩を今度はさして怖くもない力で掴み、しっかりと“私”の目を見て、言う。


「ごめんな、。」


 それは誠意ある謝罪だった。
 何に対しての、とは、言わない。ただとにかく、「私に向けて」為された、心からの、カーシュ様の謝罪であった。




 私にはそれだけで十分であった。
 私はいつしか涙を流し、泣いて、それを受け止めようとしてくださったカーシュ様の手は丁重にお断りして、泣いた。部下が上司に泣くのを支えて頂くなんて、あってはならない。
 それでよかった。私は自分の力で泣き、自分の力でそれを終わらせた。

 ただ、カーシュ様が私の名前を呼んでくださって、確かに“私”を、見てくださった!
 それだけのことだった。それだけのことだったけれど、私の心は天にも昇るような状態で、だから私は泣いた。
 私は自分で涙を拭い、改めてカーシュ様に向き直って、今度は私のほうから語りかけた。

「気になさらないでください。きっと、あのようなこと、あるとも知れぬ不可思議な世界を追う者にならあって当然のことですから。」
「でも、オレはおまえにとんでもなく失礼なことをしちまった。本当に悪かったと思う。」
「いいえ、そんなこと!……私はカーシュ様の部下ですから、どこまででもついてゆきます。ただカーシュ様は、わたくしの前に立っていてくださればいいのです。」
「……今は隣だけどな。」
 私達は向き合って笑い合った。


 それからは少しだけ、双方落ち着いた気持ちで、これからのことについて話し合う。
 見つけた墓石と、確かな可能性。
 そんな中で、遠い世界の思い出を語るカーシュ様は、ついにこう言ったのだった。私はそれを、緩やかに下降する気持ちで聞いてしまった。というのは、私が心のどこかで、不可思議にも、カーシュ様のそう仰るのを予想していたからなのかもしれない。
 ああ、それはいったい、なぜだろう?私にはそのようなこと、察しようがなかったはずであるのに。
 私は知っているのだ。“私”と“カーシュ様”の、遠い世界で為されたこのような会話を――。


「死海へ行こうと思う。」
 私はそれを、緩やかに下降する気持ちで聞いた。天にも昇らんばかりだった私の感情は、少しずつ、下界に降りてくる。
「やっぱりあそこには何かあると思うんだ。オレたち……アカシア龍騎士団四天王3人には。……ただ、おまえは連れてはいけない。あそこは危険な場所だからだ。もしかしたら関係しないかもしれないやつを、あんなところに連れて行くなんてできねえ。
 オレと、ゾアと、マルチェラで行ってくる。」
 少しずつ、私の感情は下がってくる。ほらもう今すぐに、私の手の届くところに。
「おまえは連れてはいけない。」
 その言葉が重しとなって、私の感情はどんどん下降する。
「これは、この旅を始めた当初から考えていたことなんだ。今まで続けてきて、その考えはより強くなった。やっぱりオレたちはあそこに行くべきだし、…おまえは連れて行くことはできない。
 本当に悪かったな、ただオレたちの都合に付き合わせる形になっちまって。でも、ここまでついて来てくれて本当に助かったよ。」
 もう私は、ほとんどカーシュ様の言葉は聞いていなかった。だめだ、部下ならば、上司の言葉をきちんと一字一句逃さずに聞かねばならないというのに。
 ただ下降する感情を追いかけるのに必死で、もう既に私の意識はこの場にはない。

「おまえはテルミナに帰ってくれて構わない。できたら、蛇骨大佐にオレたちのことは伝えてくれ。
 でも、やっぱり、おまえはオレたちの探していたものに関係するやつだと思うんだ。だから――おまえはおまえで、おまえ自身の可能性を探すことができると思う。そしたらきっと、おまえの探していた――“もう一人の自分”も、見つかるかもしれない。」

 行方不明になってしまった私の意識と感情は、カーシュ様のその言葉を心にどこか引っ掛けることができた、だけだった。
 私は知っているのだ、この光景を。太陽が昇るのもままならない早朝、人気のない場所でカーシュ様と2人、カーシュ様は“死海”へ行く直前で――


 そう、そしてここで、日が昇るのだ。それはカーシュ様、及び私の頬を真横から染め上げて、
「行って来るな、。」
 カーシュ様はこう仰るのだ!

 私は私の意識と感情を取り戻した。全てが「絶望」に塗り替えられた、最悪の形で。
 それでも私はこう言わなければならないのだ。なぜなら私は知っているからなのだ。この光景、この時間を。
 なぜ?なぜなのか?それは、私には、分からない。ただ、遠い記憶の世界の彼方で、必死に、何かが私に叫ぶのだ。主張するのだ。私はそれに、逆らうことができないのだ!


「はい、行ってらっしゃいませ、カーシュ様。わたくしはいつまでもお待ちしております。」


 それは、私自身が望まない、なりきれない、手の届かない、私の理想だったはずの像――
 村に戻ってまた睡眠をとるというカーシュ様を“私”は見送って、平然とした様子で見送って、そしてその姿が見えなくなるとその場に膝をついた。
 しまいには身体ごと大地に向き合って、そして、こみ上げてくるものを吐き出そうとして、何度も何度も喉を奮わせる。何も出てこない。
 私は知っているのだ、今の光景を。なぜ、どうして、どのように――?

 分からない。何も分からない。でも、知っている。
 あの光景は、確かに私の記憶の片隅にある!
 でも、それはどこ?“片隅”は遠すぎて、天に瞬く星に絶対に手が届くことがないのと同じように、私の手はそれを求めてさまようことすらおぼつかなかった。


 私は知っている、あの光景を。だから知っている、この後どうなるのか。
 私の知っている光景を、さらに詳細に思い出すことはできない、どんなにどんなに、思い出そうとしたとして。
 そうすれば何か、知ってはいけないことまで知ってしまいそうで――

 でも私は知っている、知っているのだ。ああ、言葉にならない。出てこない。喉に引っかかったものは私を不快感にくるむばかりで、その姿を現すことはない。
 私はしばらくその場で苦しみに喘いだ。人気はない。ただ波の音ばかりがこだまする中で――


 波の音。波の音がしていた。あのときも、今も。
 私の感情は言葉を紡ぎ出すが、それがちゃんとした言葉になって、ただ苦しみに苦しむ私の意識に届くことは、永久になかった。




「(カーシュ様は、もう、帰ってくることはないのだろう――……)」








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