「カーシュ様……」
 少々小柄な影が揺れる。唇も肩も足取りも震わせて、身体いっぱいで喜びだか悲しみだか驚きだか、様々な気持ちを表現して、ついにその姿が地を蹴った。
「うわあああああああん、カーシュさまああああ!!」


 勢いを一切抑えることなく、身体全体でカーシュにタックル。はそのまま彼の胸で泣き始めて、その様子を私はカーシュの背中側から見ていた。
 あーんあーん、と、まるで子供のようには泣きじゃくる。素直な泣き方だ。
「カーシュさまあ……よかった、よかったです……わたくし、あなたさまの身にもしものことがあったら…とおも、うと…」
 あーん、あーん。話しながら尚も声をあげて泣くものだから、彼女がいったい何を言葉にしているのかが聞き取れない。だが訴えたいことは実によく伝わった。

「無事でよかったぁ……」
 ぎゅう、と、の腕がカーシュの身体を捉えて離さない。カーシュはカーシュで少々困ったようにふるまうものの、結局は全て身に覚えのありすぎることだったようで、露骨に拒絶することができないでいた。というよりは、しないでいた。

……」
「はい!」
 上司に命じられたときにするような、はっきりとした返事。けれども彼女は腕の力を緩めない。泣くこともやめない。
「その、なんだ。心配かけて悪かったな。」
「そんな、滅相もございません!」
 がやっとここでカーシュの胸から自立した。腕を伸ばして目と目で向き合い、切実な様子で訴える。

「カーシュ様は単に、わたくしよりも先に自身の可能性を見つけ出されただけのこと。わたくしがのんびりしすぎていたのです。」
「いや…それは、単にオレのほうがセルジュたちとの関わりが強かったから…」
「いいえ、わたくしにも、わたくしの異なる可能性を疑問に思う意志はありました。ただわたくしがそれから目を逸らしていただけなのです。
 でも、わたくしも見つけました、わたくしの可能性を!」

 ここでが初めて視線をカーシュ以外の人物に向けた。私は驚いた。てっきり、周囲も見えずにただ意中の人だけを目がけて飛び込んできたものだとばかり思っていたのに。
 私は私ではない私の瞳に、実に真っ直ぐに見つめられ、うろたえた。心の奥底にうずまいていた汚い嫉妬が掻き混ぜられるようだった。

「……こんにちは、お久しぶりです、“”。」
「…………。」

 真っ直ぐな瞳に立ち向かうことができなくて、私は目を背ける。
 そのまま時が止まる。
 背けた視界の中で、その場に居た人々、カーシュやゾア、マルチェラ、ラディウス殿やセルジュが、さりげなく私達から離れていくのが見えた。それは気遣いからの行動だろうと私は思った。思考の端でそう思った。


「“私”はあなたの可能性。でも、“あなた”は私にとっての可能性。……ねえ、、」
「……………。」
。」
 その名前を呼ばないで。
 そんなふうに、まっすぐ、はっきりと、すなおに呼ばれてしまったら、私の心は拭われてしまう。女の意地と嫉妬とエゴとで塗り潰された汚い私の心が、さらけ出されてしまう。
。」
「………はい…」
 応える声はか細く震えていた。私が忌み嫌った、かつては私の目の前にいるの所有していたものだ。

 ああ、私は、あの夢のような旅の時間を経て、強くなれたはずだったのに。
 カーシュ様や皆様の死を認めて、前に進む、その勇気を得たはずだったのに。
 だからこそ、私は私の可能性を否定するようになってしまったのか。カーシュや皆が生きている、笑っている、その現実を認められなくなっていたのか。
 私はこんなにも弱くなっていたのか。私が嫌いなものになっていたのか。

「あなたの世界は、あなたにとってつらいものでしたか?」
「……え?」
 はしきりに私に尋ねてきた。“あなた”“わたし”、それぞれの二者を示す言葉を妙に強調して。
「私の世界はとても楽しいものです。大好きなカーシュ様や、騎士団の方々がいらっしゃる、皆様と共に戦うことができる。私は私の住まう世界を、時代を、こよなく愛しています。
 あなたの世界はどうですか?つらいものでしたか?」
「…………。」

 純粋な目が尋ねてきて、私はその場で固まった。けれども、頭は思考を開始していた。


 まず浮かぶのは、エルニドの青。海の青。耳を澄ませば潮騒の音が匂いと共に風に運ばれてくる。
 そして空の青。真っ青な中に白い雲が点々と浮かぶときもあれば、それよりもさらに小さな白い点、海上を飛ぶ鳥が青の中を走るときもある。きれいな青と白のコントラストが描かれる。
 清潔感の漂う白貴重の建物が特徴の、かつてのテルミナの美しい町並み。おとなしい清潔感の中には人々の活気が溢れていて、けれどもそれは、あるときを境に消え去り、すっかり嘘に塗り替えられてしまった。
 私の大嫌いな青。パレポリの軍服の青。銃声も嫌いだ。潮騒が掻き消されてしまう。
 あるときは、あることをきっかけにやってきた。騎士団の方々の失踪。
 私の大好きな騎士団はなくなってしまった。大好きな人々は居なくなってしまった。
 大好きな人々は居なくなってしまった。カーシュ様が、居なくなってしまった――。


「…………つらいものだったわ。」


「つらかった。本当につらかった。」
 私は話し始める。
「でも泣かなかったわ。泣かなかったの。たとい大切な人がたくさん、たくさん居なくなってしまって、ひとりぼっちになっても、私は泣かなかったの。
 ただ悲しみの淵に身を浸して、ただ日々を無意味に過ごしていただけ――。
 けれども、私は可能性の旅をしたの。壮大な旅だったの。私はそこで様々なものを見た。
 そして今、私は、本来の時間軸に帰ってきて………」
「………そして?」
 が続きを促す。私は何らためらうことなく、その促しに促されて、続けた。
「……やはり、私の世界はつらいものだった。
 そして、だからこそ、私はその中で立つことを決めた。立ち向かうことを決めた。」

 私はようやっと、目を上げて、目の前の女性を見ることができた。彼女の名前は
 テルミナの上流階級の家に生まれて、何ら苦労することなく育ち、女性としての教養を身につけ、
 そしていつからかアカシア龍騎士団に憧れを抱くようになり、家族の反対も押し切って剣を取り、家を飛び出し、騎士団に入団し、
 そこで四天王のカーシュ様に目をかけられ、直接指導され、関わりをもって、彼に心底惹かれて、
 自分の気持ちに正直に彼に接し、自ら目指すところを目指して一心に駆け、剣を振り、彼と笑顔を交わし、
 彼と可能性を探す旅に出て、そして自分なりの答えを見つけて今この場に立っている、
 私と全く同じ背、同じ髪、同じ目の、
 もうひとりの私を私は見た。私ではないを、私は見た。




「私の愛したカーシュ様はいらっしゃらないし、騎士団は崩壊しているし、私の世界は、本当につらい、つらい世界ですわ。
 ですがそれが何だというのでしょう。人間生きていれば、つらいことなどごまんとあることです。
 それでも私は立った。立つことを決めた。
 それがどうして今更、安穏と平和な可能性の中で生きてきたあなたなどに気圧されることがありましょうか。目の前にちらつかされた素晴らしい可能性に目が眩むことがありましょうか。
 質問に答えましょう。私の世界は本当につらいものです。ですが、これが私の世界です。私の愛する世界です。
 平和な世界で安穏と暮らしてきたあなたには、生涯かけても耐え得ることのできない世界でしょうね、おほほほほ。」

 口元に手を当てて、素直に、決して相手を見下すのでも蔑むのでもなく、ただ自身の誇りのみを誇って、優雅に、しとやかに、笑う。
 話す語調も、私が私として生きる中で見につけてきた教養高いものだ。決してには真似できまい。

「……仰ってくれますね。」

 そう、そして、彼女のこの気高く勇ましい様子も、私には決して真似できない。

「私とて、ただ無意味に安穏と平和を噛み締めてきたわけではありません。素晴らしい日常の中で日々培ってきた技術と力は、あなたには決して退けをとりませんよ。」
「…………言ってくれるではないの。」
「何度でも申し上げましょう。この、誇り高き一龍騎士として、自分であるあなたにも決して負けはしません!」

 その目は誇り高い龍騎士のものだった。本当に彼女は真っ直ぐに人を見る。
 私はそんな真っ直ぐさは、いつだったかは忘れてしまったけれど、なくしてしまった。私にあるのは女性としての教養とやらと、意地汚さと、女の浅はかさと、汚い妬みくらいだ。

 しかし、そんな美しい、つい憧れてしまう程の真っ直ぐさが、不意に揺らぐ。ここで初めては目線を私から外して、拳をぎゅっと握り締めて、声を震わせた。




「……そちらの世界のカーシュ様は、騎士団の方も、お亡くなりになってしまったのですね……」
「………ええ。」
「私にも、彼らの眠るところを作る手伝いをさせてください。
 ……そして、できれば、それが許されるならば、その後、墓前に祈りを捧げさせてください。」


 はそう言った。私も涙は流さなかったが、「お願いします」と、言った。声は震えていたが、確かにそう言った。








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