「まあ、にゃんこ。」
 カーシュは思わず噴き出しそうになってしまった。あいにくこの姿ではそのような人間じみた動作はできなかったのだが。
 見上げたそこに立つのはその人、である。直接の繋がりこそないものの彼女はアカシア龍騎士団所属のカーシュの部下だ。HOME、ANOTHER、どちらの彼女なのかは今はカーシュには判別がつかない。
 しかしどちらの彼女にせよ、という人は非常に丁寧な物腰の礼儀正しい女性であった。それが、その口から、「にゃんこ」と。

 笑ってしまうしかない。なるほど動物の視点というものも悪くはないものだなと、このときになって初めてカーシュは今の境遇を受け入れることができた。

 なぜだか突然、スネフの怒りを買った。エルニド海に停泊する天下無敵号にてカーシュがひと時の休息をとっていたとき、突然船室の扉が開いた。そこから猫背の怪しいオヤジが侵入してきた。驚くカーシュに向かってずんずん歩み寄ってきたスネフは「乙女の心を弄ぶとは何事かーッ!!」と叫び、マジックショウとやらを始めて後はもう説明するまでもない。この姿にされた。
 苦情を言おうにも猫の身体をしているものだから、開いた口からは「にゃー」とか何とかいう声しか出ず、捕まえて殴ってやろうにも足ばっかり早くて身体は小さくて、爪なんかを立てても逆に尻尾を踏まれて痛い思いをさせられてしまう。やっと痛みを乗り越えて事の犯人を追おうと廊下に飛び出したところで、彼女と遭遇した。
 のことなど気にせず走り抜けてしまえばよかったのだが、思わず立ち止まってしまった。すると興味深そうにじっと見つめられるものだから、ついつい2、3歩後ずさってしまう。「にゃんこ」と言われて内心笑ってしまったときには、もう遅い。完全にタイミングを逃してしまっていた。

「ゼルベスにもたくさん猫はいたけれど、天下無敵号にもいるのね。ファルガは猫が好きなのかしら。」
 呼び方も「猫」に戻して、相変わらずの落ち着いた口調では話す。その話し方で、何となくカーシュは勘付いた。このは、ANOTHERのだ。長年共に戦ってきたのだから間違えるはずがない。
「ほら、おいで。」
 舌を鳴らして手招きされる。普段見ない、いや、普段なら絶対に見ることのない彼女の動作だ。従わないのもはばかられたので、カーシュはそれに従って近くに歩み寄った。
 律儀にも手甲を外したに、優しく持ち上げられる。身体をじっと一瞥される。
「おまえは雄なんだね。なるほど、ずいぶんと肥えたからだをしている。いや、それだけでない、引き締まってもいる。さすが、ファルガ船長の飼う猫だ。きっと多くの戦いをくぐり抜けてきたんだろうね。」
 そう言うはどこまでも真面目だ。猫に対して「引き締まっている」とか「戦い」とか。可愛いとか可愛くないではなくて、そういった見方をまず最初にするところが本当に面白い。
 しかもそれは、あながち間違ってもいなかった。要するに褒められたということだとカーシュは受け取って、毛皮の上から触れる手も心地が良かったので上機嫌になった。
 するとはその手を離して猫を床に降ろす。少しだけ残念に思ってカーシュが見上げると、その喉元に指先が触れた。細い指で軽くころがされる。
「猫は心地が良いと喉を鳴らすと教わったよ。おまえもそうなのか?それなら嬉しい。」
 蒼みがかった毛色の猫は目を細めて、されるがままにされた。頭を撫でられ、毛を梳かれ、優しく動く手は気持ちが良い。
 ひとしきり猫を可愛がると、は何の名残もなくすっと立ち上がった。
「食事はきちんと摂るんだよ。運動も忘れないこと。油断していたらすぐにただの肥満になってしまうからね。」
 そして裾の長い騎士団の服をひるがえして、廊下を歩いてゆく。
「…………。」
 カーシュは、猫は、その後ろ姿を追って行った。




 出来た直後にすぐ消えてしまいそうになる入り口の隙間を、上昇した俊敏さと小さくなった身体で通り抜ける。
 長めの尻尾が部屋に吸い込まれるのと扉が静かに閉められるのは同時だった。
 、とカーシュは呼んでみた。にゃーんと少し間延びした声になった。
 足音無く入って来たその存在に一瞬こそ身を硬くした彼女だったが、降ろした視線で猫の姿を捉えるとほっと身体の緊張を解いたようだった。
「なんだ、おまえか。びっくりさせないでおくれ。」
 苦笑しながらしゃがみ込んで、視線を猫のそれに近づける。カーシュは悪かった、と応えた。にゃんと歯切れの良い声が出た。
「付いて来てしまったんだね。あいにく、ここには何も、おまえの喜びそうなものは無いんだよ。ほら、早くお帰り。私もいつまでもこの部屋に居るわけではない。おまえの都合に合わせられるわけではない。自由に行動できなくなってしまうよ。」
 優しい言葉と共に、軋む音がカーシュの感度の良い耳に届く。扉が少し、猫の身体が通れるくらいに開けられた。
 けれどもカーシュは動かない。毅然とした態度で、もしも今人間の姿だったとしたら仁王立ちをしているつもりで、しかし猫だからすまし顔でただその場に座っていた。
「……従わない、か。仕方がない。出たくなったらきちんと行動で表しておくれ。すぐに扉を開けるから。」
 カーシュは返事をした。にゃんとはっきりした声が出た。
「ありがとう、おまえは良い子だね。」
 深い色の瞳が細められて、は笑う。最後にカーシュの頭を撫でて、部屋の奥のベッドへと向かった。
 カーシュはその挙動をじっと見守る。そういえば自分はほとんどセルジュと一緒に外に出ていたから、の部屋を訪ねたことはなかったから、普段、天下無敵号に居候をしている彼女が何をして過ごしているのか、詳しく知らなかった。甲板で剣を振っているのを見たことならある。その程度だ。
 肉球で木の床を踏んで、彼女の座るベッドへと歩み寄る。猫の身体よりも少し高いところには座っていたが、カーシュは床を蹴っていとも簡単にその差を埋めた。
 なにをしているんだ、と尋ねる。なおんと低い声が出る。
「…………。」
 鳴き声の意味が通じたのかどうかは判らない。はゆっくりと首を左右に振って、猫の頬を撫でた。
 そのもの静かな様子にカーシュは一瞬面食らったが、しかしその様子を表情にして表に出すことはできなかった。
「私には、何も、できることがないのよ……」
 ぽつりと呟かれる。静かな、綺麗な声だ。中に悲しさが詰まっている。
 そして窓からどこか遠くを見つめる目からは、涙がひとつ、流れたのだった。




 カーシュはぎょっとした。猫なりにぎょっとした。
 はそのひとしずくを拭うでも抑えるでもなく、ただただ放置しているだけだった。そして白い頬を滑った透明な玉は輪郭をなぞり、膝に落ちて消えた。
 カーシュはとりあえず悲しんでいるらしい彼女を元気付けてやるという気の利いたことをするでもなく、ただ呆然とその場に座っていた。
 は続けて涙を流すでもなく、ただ静かにその場に座っていた。どこか遠くを見つめていた。

 その姿が、カーシュの中で、HOME世界ののものと重なる。ああ、彼女もこんなふうに、今は居ない人を想って、涙を流していたのだろうか。
 思案に片足を突っ込んだところでカーシュは思いとどまった。違う、違う。今、自分の目の前で涙を流したのは、“自分”の部下、ANOTHER世界のなのだ。
 礼儀正しくて、丁寧で、穏やかで、どちらもやはり“”ではあるのだが、しかしANOTHERの、カーシュのよく知ったは、お転婆なところがあって、“カーシュ”に対して尋常ならざる程の尊敬の態度を示していた。自他共に認める程だった。
 カーシュ様カーシュ様、とただ真っ直ぐに自分の後ろを追いかけるだけだった彼女が、今、泣いている。


 カーシュ自身、部下であるほうののことを深く考えたことは特にはなかった。彼女は大切な部下であり、それ以上でも以下でもない、かげかえのない存在であったのだ。
 ただ、自分を慕って、信用して、付いて来てくれる。それで十分だったのだ。

 それ以外のことを教えてくれたのはHOMEの、カーシュのよく知らないほうのだ。彼女はただの上司と部下の間にはないはずの感情をHOME世界のカーシュに対して抱いており、それは今も変わっていないのだという。
 例え世界が違えど、進んだ道が違えど、カーシュはカーシュ、だ。それならば、と、そこで初めてカーシュは『』という人についてよく知った。
 けれども、そのことはあくまでもHOMEのから教わったことだったから、やはり自分のよく知るはどこまでいっても部下でしかなかったから、彼女についてよく“考える”ことはしていなかった。どこか、HOMEの彼女で心がいっぱいになっていたところもあった。
 カーシュはに対して軽蔑の言葉を投げつけたのを見ていたが、それでも、彼女についてよく考えることはしていなかった。
 この戦いを早く終わらせて、騎士団を再結成することを待っている人がいる。それで十分だった。


 も、カーシュのことをそういう意味合いで想っていたのだろうか。
 別世界の自分から軽蔑されて、その悲しさをずっと引きずっていたのだろうか。

「…………。」
 カーシュは軽くベッドから飛び降りた。足音は立てない。
 しかしはすぐに気づいて、優しい声を発しながら部屋の扉を開けてくれた。
 一声残してから、カーシュは部屋を飛び出す。どこに居るかも判らないスネフを探して走る。
 途中自分を探す小僧とすれ違ったが、構ってやる暇はない。甲板に出てすぐに試作テレシフター片手に佇むスネフを見つけて、背後から突撃して手の中のものを奪ってやった。
「あっ、ワシの!」
 力こそ劣るものの、鋭い爪と素早い動作と小回りの利く身体を駆使して何とか逃げ惑う。二度三度と顔を引っかいてやって、くるくると甲板を回ったとき、スネフは例のギックリ腰に直面した。
「こ、腰が……」
 その場にしゃがみ込む。勝利だ。カーシュは勝者の笑みを貼り付けたい気持ちでスネフの元へ向かった。
 じっと見つめる。
「駄目じゃ、駄目じゃ!その姿で一晩頭を冷やせ!」
 背を丸くして、フゥと唸る。
「い、いいもん!助けを呼ぶから!」
 指の隙間から爪を覗かせる。甲板をその足でばしんと叩く。
「…わ、わかった、わかった!戻す!戻せばいいんじゃろ!アタタタ…老体を苦しめおって…」
 カーシュは抗議してにゃんと鳴いた。全くもって、自業自得である。
「ええい、うるさいのう。しばらく待っとれ、すぐには無理じゃ。ひい、ふう、…」
 スネフは深く呼吸をしてしばらく固まって、そしてようやく重い腰を上げた。
 じっと見上げる猫を前に、お決まりの文句から「グレイト・マヂック・ショウ」は始められた。まあその辺りはカーシュにとってはどこまでもどうでもいいから省略するとして。
 偽者くさい煙があがって、それが風に流されて消えたときには、猫の姿はもう見る影もない。蒼色の長髪の男がそこに立っていた。
「ジジイてめぇっ!!」
 直後には、スネフの胸倉を掴み上げて詰め寄っていた。
「ちゃんと戻したじゃろーがっ!」
「そのことじゃねぇ!なんでいきなり猫にされなくちゃなんねーんだよ!」
ちゃんが…」
「あ?」
 その名前が出てきたことに驚き、カーシュは思わず手を離した。苦しそうに咳き込んだ後、この期に及んでしらばっくれようとしたスネフに一喝。ようやく説明が始まる。
ちゃんが、お前さんにとても言葉にはできないようなことをされて、悲しんでおったんじゃ。だから我輩が成敗してやった。」
「…が……?」
 カーシュは考え込む。自分が、彼女に、とても言葉にはできないようなことをした?
 の話によると、HOME世界の自分は、同じくHOME世界の彼女にとても言葉には以下略なことをしていたらしい。
 しかし、自分には、ANOTHER世界のカーシュには、同じくANOTHER世界の彼女にとても以下略なことをした試しなんて、いっさい、ない。
「それでなんてテメエが出て来るんだよ。」
「それは言えん。我輩とちゃんの秘密だ。」
 中年が茶目っ気たっぷりにそんな単語を発することもそうだったが、何よりも「ちゃんと」の部分に無性に腹が立った。カーシュは一発このインチキ臭い男を殴ってやろうかと拳を作ったが、すぐに馬鹿らしくなってやめた。




「おい、!!」
「はい!!」
 何のためらいもなく、今までずっとそうしてきたように力いっぱい船室の扉を開けてやれば、尚もベッドに腰掛けていたはびくりと肩をすくませて背筋を伸ばして、それでもはっきりとした様子で返事をした。そして直後に言葉を続ける。
「何でございましょうか、カーシュ様!」
 一見、いつもの彼女だ。カーシュは一瞬ほっとしたが今はそんなことは関係ない。
「手合わせだ。」
 そして隠そうともせずに持っていた2本のオール(ちょっと拝借した)のうち1本をに向けて放る。少し勢いよく飛んでしまったが彼女はいとも簡単に掴み取る。
「あ、あの、カーシュ様……わたくしには、状況がさっぱり飲み込めないのですが…」
 ひとまず受け取ったはいいもののそれをどうすることもできないのか、は少し慌てた様子でカタコトと言葉を紡ぐ。ヤマネコとか凍てついた炎とか古龍の砦とか六龍とか、かつて経験したこともなかったような壮大すぎる戦いに巻き込まれてからは一度としてなかったことだったから、かつてのように望むところだとすぐに応戦することができなかったのだろう。
「問答無用!表へ出ろッ!」
「はいっ!!」
 しかし長年仕込まれた条件反射は尚も健在なようで(さすが、俺様の教育のおかげだ)、一際大きな声と同時に扉の外を示してやると、即座に素晴らしいまでの反射で直立不動の姿勢を取って指示に応えた。
 直後に、「あ、あれ…」と納得いかないように首を傾げていたところを見ると、やはりまだ状況が飲み込めないままでいるようだったが。
「……あの、カーシュ様……わたくしが何か、お気に障るようなことをしたのであれば、何なりと仰って下さいませね…。」
「そんなんじゃねーよ。」
「…………。」
 歩きながら必死に何かを考えている様子だったが導き出した答えは、そんなものだったらしい。カーシュはそれを一蹴。続けて説明してやる。
「オレはおまえの上司だ。おまえはオレの部下だ。たとえこの先世界がどうなろうと、それは変わるもんじゃねぇ。細かいことグダグダ考えてたって変わらねぇ。」
「…………。」
「だから!」
 カーシュは振り返った。居辛そうに肩を竦めていたが顔を上げる。
「“オレが”、“おまえを”鍛えてやる。まだまだ俺様の足元にも及ばないおまえを、一人前の龍騎士にしてやる。」
「…………。」
 その言葉がいったい何をに伝えたのか、カーシュには判らなかった。きっとこの先も判ることはないのだろう。
 がカーシュを見る。少し低い位置から、いつものあの、力強い意思が、未来への希望が、憧れが、こもった目で。
「――承りました、カーシュ様!わたくしは、カーシュ様のご指導の下、必ずや、その名に恥じぬアカシアの龍騎士へとなってみせましょう!」
 その言葉には満面の笑顔も加えられていた。




 もちろん、カーシュが勝った。圧勝だ。
 でも少しだけ、危なかった。本当に少しだけ、だが。もちろんそれが彼の敗北に繋がることなど有り得はしないが。
 さすがは彼のアカシア龍騎士団四天王が直々に鍛えた龍騎士だ。それでもまだまだ未熟だ。もっともっと、一緒に強くなっていかなければならないだろう。








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