七 神様と天使と梯子

はどうして碁を始めようと思ったんだ?」
 いつもの指導碁の後、伊角がそのように口にした。指導碁の前にはそれに繋がる話題になっていたので、特に他意は感じられない、どうということはない自然な会話の流れだった。
 質問を受け、はためらうことはなく筆談器に文字を綴り始める。
『いきててたのしくなかった』
『つらくもなかったけど』
『なんとなくいきてた』
 日々漫然と感じてきたことだから、言葉にすることは容易かった。
『なにやってるんだろって』
『なにかはじめたかった』
 は、あの日、伊角と出会ったあの日、近所の書店に出向く直前の出来事を思い返す。
『テレビで対局を見た』
 それは衝撃的な出来事だった。
『いごでおしゃべりしてるみたいで』
 声も言葉もないのに、画面の中の二人の間には盤面を通して共有する世界がある。常人には見えない深淵がそこにあり、確かに彼らは思いをぶつけ合い対話していた。そのときのにはそう感じられたのだった。
『わたしはしゃべれないから』
『やってみたくなった』
 普段の彼女からすると少し長めの語りを、慎一郎は茶々を入れることなく頷きながら聞いていた。は一連の文字を書き終えて一息付く。すると続けて伊角が声で話し始めた。
「なんだか似てるな、オレたち。」
 その切り出しには心を磔にされた。
「オレは…と違って、障害もなく呑気に生きてきたけど。
 中学校で優等生として過ごしてて、これから受験をしてそれなりに良い高校に入って、大学に入って、なんとなく就職してなんとなく生きていくのかなって思ったら。
 そんな生き方に物足りなさを感じてしまったんだ。
 ちょっとしたきっかけで出会って、始めて、初めてこんなに夢中になれたのが囲碁だった。なんだろう、盤面に向かって意識を研ぎ澄ませている時間が好きなんだ。限界まで考えて考えて、そうして自分を高めていくのが。」
 は伊角の言葉一つひとつを噛みしめるようにして聞く。彼が自分のことをここまで話してくれるのは初めてだった。そのことがただ嬉しくて嬉しかった。
「今はただ、強くなりたくて打ってる。これがオレの生きる道だから。碁っておもしろいよな。」
 そう語る伊角の目は、大切な「囲碁」という道への慈愛に溢れていた。
 似てるな。その四文字の言葉がの心に明るく差し込む光となる。好きな人との共通点を好きな人から見出される。これがどんなに喜ばしいことか!
 最初は碁がやりたいから慎一郎に教わりたかったのに。今では慎一郎に教わりたいから碁がやりたくなっている。
 好きな人の好きなことをやりたい。宇宙の深淵を共有することはできずとも、その世界の端で同じ空気を吸っていたい。
(こんなんじゃ嫌われちゃう。)
 秘密にしなければ。これは、ずるいずるい女の秘密だ。



 8月20日。今日も今日とては日本棋院で伊角を待つ。いつもより少し遅めの時間に彼が現れると、はぱっと明るくなって彼を出迎えた。のだが。
「やあ、。」
 対する伊角の表情が明るくなかった。元より彼は温厚な気性の青年であったから、例えば彼の友人である和谷や新藤のように目まぐるしく元気にふるまうことはあまりないのだが。けれども今現在に対面する伊角慎一郎は、普段どおりに笑顔を作って声を発しようとしてはいるものの、普段と比較してあまりにも気分が落ち込んでいるのがには見て取れた。
 その瞬間の心にある思い付きが浮かび、精査するより前に彼女は胸元に抱えていた筆談器に文字を書き始めた。
『今日は出かけよう!』
「え? えっ?」
 そう書くや否や、伊角の返事も待たずには彼の手を取って走り出した。
 今日は8月20日。伊角のプロ試験本戦が始まる一週間前だったからだ。


 これは以前から考えていたことだった。日曜日がくるたびには伊角と会って碁を打っていたが、彼のことを個人として男の人として好きになってからは、碁を打つだけではくて色んなことをしたかった。それこそ、仲の良い恋人同士のように。
(…それに、最後だし。)
 とはいえは、街の中に何があるのかを知らなかった。ファストフード店に行ったことすらなかった具合である。そこのところを彼女は深刻には考えず、まあ歩いていれば何かがあるでしょう、という気持ちで気軽に伊角を連れて歩いていた。
 果たしてが目を付けたのは、他より一際キャッチーな外見をした施設だった。
『これ何?』
「これはゲームセンターだな。オレもあまり来たことはないけど、いろいろなゲーム機がある。
 、ここに来たかったの?」
 予定としてあったわけではないのだが。ここまで来た以上引き下がることはできずに、は伊角と共にゲームセンターに入場した。
 実に騒々しい空間である。人の姿が散見されごみごみしている。皆思い思いに過ごしていた。
「それはクレーンゲーム。中の商品をクレーンで掴むんだ。」
「それはシューティングゲーム。画面の中の敵を銃で倒す。」
「それはモグラ叩き。」
「それは、」
「それは、…」
 が目移りする度に伊角は解説をしていった。日頃碁を教えるときからそうだったが、彼は実に面倒見の良い青年である。
 数多あるゲーム機をは何一つ知らなかったが、最終的に「簡易的な写真機」と説明された箱の前に二人は行き着いた。写真を撮るだけならにもできそうだった。
「プリクラ…は…女子でもないしちょっと恥ずかしいかも…」
 はそう言う伊角を箱の中に連れ込む。小銭を投入して指示されるままに画面を操作して、照れて戸惑う伊角をなだめて、よく分からない間に写真を撮られたらしい、そして何となく終了した。
 箱の外に出来上がった写真のシートが出て来た。結果として伊角とのツーショット写真が得られたのでは満足である。にんまり笑った。
 一方で伊角はそんなを眺めて、が喜んでるならいいかな…と、流されるままに納得するのであった。
 それから二人は積極的にゲームの機械で遊んだ。エアーホッケーやレーシングゲームなどで対戦して騒ぎ、景品を取るゲームで協力して一喜一憂する。ひとしきり遊んだ後は付近の店でクレープを買って食べて帰路に着いた。


 いつも対局が終わった後はすぐにその場──一般対局室で、行っても日本棋院の前で別れてしまうので、こうして二人である程度の距離を並んで歩くことも初めてだった。
 そろそろの時計のアラームが鳴りそうだった。二人の時間の終わりを告げる非情な鐘が。
、今楽しい?」
 突然の伊角の問いかけに、は間髪入れずに大きく頷いた。伊角は安心したように表情をほころばせて続けた。
「人生が物足りないって言ってたけど、こういうのじゃだめかな。」
 あっもちろん碁もそうなんだけど、と合間に挟む。
「オレはが、身の回りのささやかな楽しみも見つけてくれたらいいなって思うんだ。」
 街中の、騒がしい通りを歩いていたので周囲に人の姿はあった。けれどもこのとき、朱色が空に訪れる夏の日の夕暮れ、は伊角と世界に二人きりになったように錯覚した。対局の外であってさえも。
『ぜんぶしんいちろーがくれた』
 は震える手で筆談器に綴った。
『ありがとう』
「お互い様だよ。」
 けれども伊角は当然のことのようにそう返すのだった。そのことがにはとてつもなく嬉しかった。
『しけん がんばってね』
『ゼッタイ受かる!!』
「ありがとう。」
 そして二人の帰り道の終点である分かれ道に到着した。
「じゃ、またな。」
 伊角は先週と変わらない調子でそう言った。それに対し、は唇を引き結んで、緩慢な動作で首を横にふるふると振った。
『らいしゅうから しけんでしょ』
『じゃましたくない』
 そしてしかし最後の決定的な一言を書こうとするを伊角が遮った。彼にしては大きく激しい声だった。
「ううん、ジャマなんかじゃない!」
 はぽかんとして伊角を見上げる。そして書いた。
『いいの?』
「うん。」
『気つかって』
「違う。に教えるのがためになるんだ!」
 伊角はきっぱりとそう言い切った。いよいよ信じられない気持ちでの意識はぐるぐるとかき混ぜられた。
、どんどん上達してる。最初はそれが嬉しくて、おまえのために教えるだけだったけど、が何を考えて、どんなふうに打ってくるのか。おまえが何を言いたいかがまっすぐに伝わってくる。オレは精一杯考えて、それに答える一手を打つ。との一局がオレの碁の道に繋がってるんだ。」
 言葉の一つひとつが重くの心に落ちてきて、足場を作っていく。
「オレは、オレのためにと打ちたい。」
「それに、」
 その言葉があまりにも欲してやまないものだったから、の視界が一瞬眩んだ。
といると、元気をもらえるんだ。」
 伊角の笑顔は夕焼けに溶けた。人好きのする、ふにゃっとした笑顔だった。
「もしかしたらオレの碁の勉強──棋譜並べとかに付き合ってもらうこともあるかもしれないけど、いいかな?」
 いいかな、への返答としては文字を書いて答えようとした。けれどももどかしい気持ちでいっぱいになって手が止まり、顔を上げて伊角を見て、しかし案の定声が出ない。苦しみながら口をぱくぱくと動かす。どうすることもできずに、最終的には頷いた。何度も、何度も。
 そして時計のアラームが鳴った。けれどもそれはが恐れていたほどの意味をもつものではなくなっていた。
『またね』
「ああ。」
 最後にささやかなやりとりをして、二人は別々の道に歩き出す。別れのあいさつはその程度でいい。だってこれはいつもの、何度でも繰り返した、いつもどおりの別れなのだから。

 しかし伊角と別れてしばらく歩いた後、人気のない住宅街の道で、はついにはこらえきれなくなって泣き出した。温かく優しい涙だった。

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