植物達が意思を持って動き出し、「女王」とやらを守るように振る舞っても尚、男は彼女をただの少女としか見なさなかった。
 これは何となくのことであるが、何もかもが植物でできたこの家も、少女も、全てが作りものとしか思えなかったのだ。いわばこの場は子供のために作られたジオラマで、そこを彩る花も、野菜も、草木も、その中心である少女を楽しませるためだけの遊具でしかない。大気さえもが含む神聖さだって、しょせんは遊びに楽しみを付け加えるスパイスだ。
 だから少女は確かにこの小さな王国の女王であるかもしれなかったが、それは結局は子供の「ごっご遊び」に過ぎないのだ。
 しかしこれらはあくまで印象であり、漠然としたものであり、曖昧である。何よりも男自身がそのジオラマを形成する人形のひとつとなっていたから、閉鎖的な王国に引き込まれていたから、全ては無意識のものであり、彼は、そんなことは決して意識の下には置かなかった。
 少女の1日は早く始まる。背の高い木ばかりが茂る森といえど少女の広場は開けていて、朝昼夜の区別はよくついた。まるで碧の粒子でも待っているかのように常に淡く色づいた大気は、それでも時間によってたびたび違った色を見せた。夜に比較して碧がだいぶん庶民的になる朝、それも大気の色自体がきわめて薄い早朝から少女は起き出し、広場にある全ての植物達に挨拶をして回るのだった。
 それに男が気付いたのは、ここでの生活を始めて初めて迎える朝だった。慣れない環境での睡眠を身体が許さず、囁くような声にさえも簡単に目が醒めてしまった。
「おはようございます。」
 と、少女は例によってあのほほえみを貼り付けたまま挨拶をしたが、それはすぐに消えた。何かにはっと気付いたように、口に手を当てて目を見開く。
 そして今までよりもさらに小さな声で、
「すみません。起こしてしまいましたか?」
 こう尋ねるのだった。
 男は返事をするのが億劫で、ただしばらく黙っていた後、また植物の蔓でできたハンモックに身体を投げ出した。ちなみにこの寝床は、とてもではないが花のベッドなどでは寝られない男が少女に用意されたものだった。
 以降は音のない時間が続く。疲れた身体は睡眠を必要としていたので男はすぐに眠った。そしてしばらくしてから目が覚めた。
 太陽がすっかり真上に昇ってしまった時間帯である。男は身体を起こしてハンモックから降り、そして偶然その目に少女が映った。
「おはようございます。よく眠れましたか?」
 少女はまたも、あのほほえみを貼り付けて挨拶をしてくるのだった、早朝と全く同じ立ち位置で。その手にはやはり自然の素材でできたじょうろを持っていたが、実はこれは、早朝にも持っていたものであった。
「………おはよう。」
 男は寝ぼけた頭で何となく、挨拶に挨拶を返す。挨拶をされてから挨拶を返すまでに相当時間が経ってしまっていたためにこのとき既に少女は花の水やりを開始していたが、自身が挨拶されたのを認識すると、彼女は顔にほほえみではなく笑みを浮かべた。
「入り口に水瓶があるので、よければそこで顔を洗ってください。お昼は水やりを終えたら作ります。」
 言われずとも男は入り口付近の水瓶へと歩き、そこで顔を洗った。瓶にはきれいな水がなみなみと張られていて、その水面の静けさたるや男の顔を余すところなく映すほどである。彼は不快になって、瓶に渡されていた柄杓で水面をかき乱した。

 少女は室内の花に水をやると、外へ出て外の花、その他植物に同様のことをした。そして戻るとすぐに昼の支度を始めた。
 少女は外から中へ戻ったとき、腕いっぱいに食材を抱えていた。男が見たのはそれまでで、後は特に少女に注目していなかったために彼には知れないが、それほど待たずに声をかけられた。
 少女お手製の料理が並べられた机は小さい。男は背の高いほうではあるが、それが床に座って猫背になって、それでようやく間に合うほどである。大の大人と少女が、ひとつの小さな机を挟んで座って向かい合う。その光景は、王国と呼ぶにはやはりあまりに庶民的すぎた。
「いただきます。」
 少女だけが手を合わせてそう言う。続けて彼女は男を見て言った。
「口に合わないものがあれば、仰ってくださいね。」
 ここまでくると神聖さもいよいよ詐欺である。実際に男は何か騙されたような気にでもなって、ひとまずもっとも無難に見える飲み物に手をつけた。味を気にする前に彼は目は机の上に固定したまま少女に話しかける。
「これは、見たところ、全部生のようだが。加熱はしていないのか?」
「加熱!」
 少女は目を丸く見開いて、口を手で覆った。いかにも優雅なその動作を前に、男は飲み物をもう一口飲む。
「…ここでは、そのような危険なことはしません。火は危険ですから。」
「何だって?」
「全て燃えてしまいます。家も、花も。私も、あなたも。」
 男は納得した。こんな可燃物ばかりの空間だ、ひとつ間違えば大惨事である。山火事ならぬ森火事だ。
「とれたての食材ばかりですから、新鮮ですよ。安心して食べてください。」
 男はいったん飲み物に口をつけてから、一番近くの料理に取りかかることにした。言うまでもなくそれ、芋を柔らかくして潰したようなものは、皿代わりの分厚い葉の上に乗っている。
 半信半疑でそれを口に入れたが、率直に言えば、男にはそれがおいしく感じられた。本能に従って自然と進み出す手を彼は止められない。
 あまり量がないのですぐに一品を食べ終え、すぐに別の品目に取りかかる。これもまたおいしい。空腹がよけいに彼にそう感じさせた。
 少女が食べるのは実にゆっくりで、その一方で男の食べるのは凄まじく速い。少女はただほほえみながらそれを見守り、男は向かいの彼女に目もくれずに食べ続ける。会話がないまま食事は進む。
 男が鷲掴みにしていた食器を机に落として、彼の食事は終了した。なので少女は一度手を止めて尋ねた。
「たくさん食べてくださって、ありがとう。お味はいかがでしたか?」
 男は何も言わずに、ある品の乗っていた食器を手にとり突き出す。そして言った。それが少女にとっての何よりの返事だった。
「足りない。おかわりだ。」


 さて食事も終わり、男は少女に怪我の具合を見られることになった。
 とは言っても、治療を受け始めてからまだ1日と経たないのである、何か変わった点があるでもない。少女はただ、骨折がこのまま放っておけばちゃんと回復に向かう状態になっているか、包帯や絆創膏は清潔であるか、くらいを確かめた。必要に応じて何箇所かはそれらを取り替える。あとはせいぜい不潔な身体を拭く程度で、ちなみにそれは男が自分でできる範囲で行った。
「見る限りでは、このまま数十日安静にしていれば、完治するでしょう。」
 男の傷だらけの背中に少女は声をかけた。実際、彼は怪我と一晩を共に過ごしたことになるが、骨折の腫れはおかしな程に鎮静化していたし、表面の傷はそのままにしておく限りちっとも痛まなかった。どうやら実際に治癒が進んでいるらしい。
「よかった、本当によかった…。」
 男は何事か呟く少女に応えず、用も済んだ様子であったので、服を着ようとした。すると少女がそれを制して言った。
「それは、昨日も着ていらした服ですね。ずっと同じものを着ていては不潔です。洗濯をするので貸してください。」
 何と少女は信じられないことを言う。要するに年下の少女から脱げと要求され、男は彼女に背中を向けたまま、どこかおどけた気持ちになって返した。
「貸せ、って。おいおい、それじゃ俺はその間、何を着てればいいんだ。あいにくと俺はお嬢ちゃんのように仮装をする趣味はないぜ。」
「少し待っていてください。」
 そのように言い置いてから、少女は扉(玄関の正面あたりにあるそれの存在に、男はこのとき初めて気がついた)に入った。しばらくして戻って来たときには、その手に簡素な布の服を持っている。少なくともそれは、男のようなただの人間の男が来ても差し障りないようなものだ。
「これをどうぞ。サイズは合うかしら。」
 言われるままに出されたものを身につける男。その身体に自分の持ってきた服がぴったり合うのを見て、少女は嬉しそうに笑った。
「よかった! まだ他にもあるの。よければ全部使って。」
 少女は扉を何度か出入りし、シャツからズボンから下着まで、男性一人が身につけられるありったけの服飾を男の前に出した。そのどれもが一様にして質素で簡素なもので、生地は柔らかく肌に心地よい。
 食事も済ませ身体の様子も確かめ着替えも受け取った。後は対してすることもない。常に少女は動き回っているようだったが、重傷患者である男にはそれもできない。何もないここでの唯一の変化は少女の存在くらいだったが、彼女が動き回っていったい何をしているのか、そんなことには男は一切興味を示さなかった。
 ただ何となく時間を過ごしているうちに日が落ち、夕食をも済ませ、それでも溜まっていた疲労があったので、男はすぐに眠りに落ちた。


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