男は遙か南の国で生まれた。王家所有の騎士団に、試験を受けずに入団できる程度の身分の家に生まれた。
 しかし、そんな彼に騎士としての志があるわけがない。誇りも名誉も虚構のものでしかなく、彼はついには落ちぶれた。
 幸いにもちょうどその頃国が戦争に負け(ひょっとしたら彼の堕落も、その出来事に影響されたのかもしれない)、似たようなくくりにまとめられる心境の者は大勢いた。多くの者が国を捨て、徒党を組んで暴力で地を駆けた。
 生きるため、というよりも欲望を満たすため、男は何でもやった。やらなかったことは善行と忍耐くらいのものである。「生きるため」を建前に、騎士の剣を略奪のための武器にして、許される許されざるなどお構いなしに、彼は彼に考えられる全ての悪行をした。
 力で手に入れることで、子供の頃呼んだ英雄の伝記への憧れを形にできた。弱者を虐げることは、男としての浅ましい欲望を満たしてくれた。得たものを湯水のように消費することによって、彼の心の汚いものは外に流れて出ていった。
 嘘だった。
 遠い昔に彼が憧れた英雄は、少なくとも人から奪うことはしなかったはずで、子供を殺したり女を陵辱したりなんて以ての外だ。自分より弱い者だけを虐げたって、彼の陳腐な男心さえ満足できるわけがない。彼が手に入れたものは消費されることにしか価値がなく、彼が欲したものはそうしたことでしか繋ぎ止められず、だから常に彼の心は渇いていた。ただ、満たそうとしていただけ。
 しかし、たとえそれに終わりがなかろうと、途上に身を置いていればその身の不足を言い訳することができる。だから一生目的が達成されることはないが、彼にはこの生活が都合良かった。
 ある日、事件は起こらなかった。ただいつものようにいつものことをしたら、いつもは辛うじて逃れていた目から逃れられなかっただけのことだ。世界が常に変化を求めるように、個人にも変化は訪れる。そして傷を追って一人で逃げる男が足を踏み入れたのがこの森であったというだけの話。
 しかし今こうして意識を手放し眠っているとき、男の脳裏には蘇って消えない像があった。それは彼が今まで殺めた男女老人子供の怨念、というのでもなく、彼の記憶の中では最も新しい「血」だった。それは彼自身のものである。共に行動していた者の一人がちょうどそのとき最も都合の良い位置にいた男を踏み台にしたために、彼は一人残されたのだった。もはや追いかけることも叶わない、かつてはその先頭を自身が切って走っていたはずの集団の背中をぼんやりと見つめていたら、その後ろから近づく者があった。
 有無を言わさず攻撃され、男はこのとき初めて「生きるため」に逃げた。逃げていたら森があったので、何も考えずに、そこがいったい人々に何と呼ばれているのかは視野の外に追いやって、入った。
 するとだから誰も追いかけては来なくなった。しかしなので男にはもはや戻ることはできず、人々から「迷いの森」と呼ばれ忌み嫌われているその森を歩くしかなかった。
 いったい何時間歩いたのか分からない。そして男はこの「家」を見つけた。


 前触れなしに始まった夢は前触れなく終わる。男は目を覚ますと同時に上半身を起こした。室内の灯りは消されて周囲は真っ暗だ。他に見るものが特になかったので、男は、月明かりによって青白い光を放つ窓際で影を作る少女をすぐに見つけた。
「眠れないのですか?」
 表情は見えないが、少女は口を開いてそう言った。男は質問には答えない。
 少女は言った。
「眠れないのですか?」
 男は質問には答えない。
 すると少女は立ち上がり、男の居るベッドの脇に近づいた。男にも表情が目と口と鼻から捉えられるようになる。
 少女は暗闇に碧色の目を光らせて言った。
「疲れていたので、自然に眠ってしまったんでしょうね。だから、夜中なのに起きてしまった。」
 少女はまたも問いかける。
「眠れないのですか?」
「…………。」
「私、知っている子守歌があります。それを歌います。」
「なっ…! 余計なことをするな!」
 しかし少女は歌い始めた。少女による少女のための少女だけの声で、男のための子守歌を。
 歌詞の言語は学のない男には分からなかった。実際は古代の言語で紡がれる歌は、静かな森の夜に呼応するように、囁くように歌われる。そしていつしか人の声に鈴を鳴らすような虫の声(これも男は聞いたことはなかったが、聞いたことがあるような気はした)が重なり、それから男は眠りに落ちた。


 朝。男は静かに目を覚ました。そして最も初めに、彼の腹の上に上半身を預けて少女が眠りこけているのに気付いた。
「……おい。」
 気持ちよさそうに寝息を立てているのを、にべもなく起こす。
 少女はすぐに身体を起こし、男の顔を驚いたように見て、そして窓から切り取られた外を見た。比較的庶民的な碧が漂っている外を見たはずだった。
「い、いけない! 私ったら、いつのまにか寝てしまって…」
 そして自身すら状況を飲み込めていないようだというに、男に指図をするのだった。
「いけません、あなたはまだ寝ていてください。」
 ぐいぐいと男の胸を押してベッドに横たわらせ、そしてまた少女は昨晩のように子守歌を歌い始める。少女の歌は夜に聞いたものとはまた違った印象を男に与えたが、それは朝だけが理由ではなかった。
「おい。」
 少女は歌う。
「おい。」
 歌い続ける。
「おい、花の女王とやら。聞いてんのか!」
 上半身を起こして男が少々声を荒げると、胸に手を当て声を奏でていた女王はびくりと両肩を跳ねさせた。歌を止めて男を見る。
「ごめんなさい。歌を歌うことに集中してしまいました。何でしょう?」
「………もう朝だ。俺はもう寝ない。」
「あっ、」
 女王はまるでここで初めて気がついたかのようである。朝の光を返して光る碧色の大気を見て声をあげた。
「ほんとうですね。それでは朝ご飯にします。」
 前日の昼と夜と同様に、しかし詳細は全く異なって料理が机の上に並べられる。どれも新鮮な生の食材ばかりだ。
 少女と男は机を挟んで向かい合う。料理を前にして少女が手を合わせて、
「いただきます。」
 そう言った声はふたつあった。言うや否や男は料理に手をつけ、凄まじい速度で食事を進めていく。
「おかわり。」
 男はすぐに食べ終わった。空の皿を突き出して言う。
「おい、俺はこんなんじゃ足りないって言ったよな。速く持ってこい。」
 男は女王の目を見た。彼女は碧の目を丸くしてきょとんとする。
 たとえそれが混じりけのない自己中心的なものだったとしても。女王にはただ、目の前で食事を共にしてくれる存在が嬉しかった。彼女の表情は見る見る明るくなっていき、しまいにはまるで花のような笑顔が咲いて、花の女王は大きく頷いた。
「はいっ!」


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