「どうしたの、ワーミン。」
 扉を開けたラワーフィが見たものは、薄暗い小部屋の中で怪しく蠢くワーミンその人の背中だった。
 黒色の服は黒色の闇に同化し視認するに難かったが、それでもラワーフィはワーミンを黒の中に見つけた。
 彼女は終始、彼はいったいこんな部屋で何をしているのだろうか、という純粋な疑問のみから呼びかけをした。そんなところでなにやっているのワーミン。鈴を鳴らすような声で尋ねる。しかし彼が振り返ったのはそんな純真無垢な呼びかけに対してではなかった。
 痩せた(栄養不足ではなく、元々の性質であるようだ)身体がゆっくり振り返る。まるで猫のような目が、暗い色であるはずのその一対の瞳だけが闇の中輝き、ラワーフィをふと捕らえた。
「ひっ…!」
 ラワーフィは思わず息を呑んだ。そしてそのまま息が吐き出されない。結果呼吸をするということがうまくできずに、しかしそれを苦しいと思う暇さえ掴めず、彼女はかちかちと奥歯を鳴らした。
 後に長く尾を引く恐怖の原因は、ワーミンのまるで獣のような様子だ。そしてそれを引き起こした出発点となった驚きは、彼の手の中に握りつぶされている一本の赤い花弁の花だった。
「…あ、あ、……」
 あまりの感情の波に涙までもが頬を伝う。ラワーフィは、ワーミンに初めて出会ったときにも、彼からかつての思い出話を聞かされたときにも、彼から脅されたときにも、ついぞ恐怖することはなかった。それが今、ひたすらの恐怖にただ怯えている。
 なぜなら今このときワーミンは、ラワーフィにも分かるほどに純粋で幼稚な感情を、他のどこの誰でもない、たった一人の小さな少女に向けていたからだ。それを彼女は分かってしまったから、ラワーフィは涙しているのだ。
「ヒヒッ…」
 ひきつった笑いをワーミンは口に浮かべた。しかしこのとき彼は目でも笑っていた。彼の感情は純粋で幼稚であったために、残念ながらこのとき、どこをどう探しても嘘偽りは存在しなかったのである。
 そしてワーミンは立ち上がった。動作に連れて自然に、握りしめていた手を解く。すると「花の女王」は力尽き、花びら一枚はらりと散らしてそれ自身も散った。
 蹂躙されたかつての「女王」は見るも無惨な最期を遂げた。たった一本凛と咲き誇っていた茎は中腹から引きちぎられ、それの元々生えていた小さな植木鉢は粉々に砕かれ無くなった口から土を吐き出している。ふくよかな緑の葉は一枚残らずむしり取られていた。そして今、ワーミンは床に落ちた花を踏みつけた。意地の悪い笑顔を顔に貼り付けて、ラワーフィに視線を固定したまま。
 そうして彼は花を踏みにじる。足首の動きに合わせて繊維の潰れる音がして、彼が足を上げた跡にはまるで血でも流したかのように赤い色素が滲み、間違いなく花は死んでいた。
「女王さま…っ!」
 やっとのことで無意識的に言葉ひとつ吐き出して、ラワーフィは恐怖にではない涙を流した。そしてそのとき、か細く震える小さな少女の肩が男に捕まれ、ラワーフィはワーミンの手によって床に押し倒された。
 男は少女の身体に馬乗りになり、自然の素材でできた衣服に手をかけ、容赦なくそれをはぎ取った。花の王冠は最初の衝撃で既にそのへんに転がっている。首飾りを奪う。肩当てをはがす。胴を覆う生地を破る。ベルトを取る。そしてスカートを。
 わずかばかりの装身具以外は身を隠すもののなくなった少女は、男の身体の下で顔を隠してすすり泣いていた。色の白い肌が、細い腰が、男の欲望剥き出しの目にきれいに映る。
 ワーミンにとって、ラワーフィは聖女だった。たとえ本物の「女王」を紹介されて、彼女の出自を知って、彼女は実は実際に頭の幸せな少女だったことまでもを知っても、それでもラワーフィはワーミンにとっての女王だった。きれいなお花がたくさん咲く、小さな王国の女王さま。それがラワーフィ、それが聖女だ。
 しかし聖女は絶対的なものではない。絶対不可侵の聖なる存在にかつては思われたラワーフィは、実はただの少女だった。彼女を守る植物たちもけして女王を守る兵隊なんかではなく、単純に彼女を好いているだけなのだ。それが現実だ。
 そして今、ワーミンの身体の下で全裸になったラワーフィは、このときこそ本当に女王でなくなった、ただの少女になった。しかしそれこそに本当に、ワーミンは欲望をかき立てられた。
「おい、ラワーフィ。手をどけろよ。きれいな碧の瞳を見せてくれ。」
 ワーミンは低い声で囁く。体よく言えばそうなるが、実際はただ獣のような荒い息の合間にかろうじて唸り声を出しているだけだった。
「顔なんかより、隠さなきゃいけねえところがあるだろう。」
 それでも顔を隠すことをやめないラワーフィの手の縁を涙が伝った。
「イヤだろうなあ。こんな男に犯されるなんて。」
 相手からの反応がないことそれを無意味にも言い訳として、ワーミンの行為はなおさら止まらなかった。白い肌を節くれ立った指の手で撫で回し、唇ではないいろいろなところに口づけをする。
「怖いか? 怖いだろう。俺が気持ち悪いだろう。俺が憎いだろう。俺が嫌いだろう。
 抵抗したいならしてくれ。そのか細い腕を振り回すといい。存分に暴れさせてやるよ、それなりには俺を楽しませてろ。」
 ラワーフィは抵抗しない。暴れない。だが泣いていた。静かにすすり泣いていた。そしてそれはワーミンを興奮させた。
「恨むなら、あの日俺を拾ったおまえ自身にするんだな。」
 そしてこの日、聖女は聖女でなくなった。


 少女は気を失って倒れている。瞼は降りているからただまつげの長いのがよく分かるだけで、碧の瞳は見られない。
 裸の少女をそこに残したまま、自分の服を直したワーミンは小部屋を出た。後ろ手に扉を閉める。そしてすぐにそこでうずくまった。
「……クソッ!!」
 しかし、うずくまるのも毒づくのも一瞬で終わる。猶予を自身に与えずに彼は立ち上がり、そう広くはない家のあちこちにある(生活の中で自然にそれらはちらばってしまった)、自分に関わる荷物を捜し始めた。それすらもそう多くはないためにすぐに終わる。
 ところがその過程で、ワーミンは剣を視界に入れてしまった。結局、守るための武器ではなく、傷つけるための刃物になってしまった剣だ。彼はそれも手にとって、忌々しいそれを腰に帯びた。ここを永遠に立ち去る準備はこれでしまいだ。
 扉を出て階段を降り道を歩き畑の脇を抜けそして広場を駆ける。森へ飛び込む。
 しかしこのとき彼は、この森の「迷いの森」たるゆえんをすっかり失念していた。彼のこの数ヶ月間に及ぶ「花の女王」との生活は、彼が思っていない以上に、彼に絶大な影響を与えていたのだ。


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