花の女王との共同生活を始めて数日経った頃、男は松葉杖を付いて屋外に出た。
 このところすることと言えば文字通り、寝るか座るか食べるか女王と喋るかであった。そんな男にとってもはや、外に出ることすらたいそう難儀なことになっている。まだ扉を開けない段階で男はそのことを悟り、言いようのない気分に駆られた。少なくともそれは好ましいものではない。
 女王に支えられながら、正面の階段を下りる。時刻は昼間。実はこの時間帯は大気の色は無いに等しく、どこにでもある森の風景をふへんの太陽が明るく照らしている。
「そういえば、まだきちんと案内していませんでしたね。」
 なぜかは男に知れないが、女王の声も同様にどこか明るい。階段を下りきり家の前に立つと、彼女は言葉どおりに言葉だけではあるが案内を始めた。
「案内、とは言っても、そこまで複雑な作りではありませんが。
 家を正面から出るとここに出ます。この道の両隣にはお花や野菜、果物などの植物が植わっています。お花は、時期によって様々の彩りを見せてくれます。季節によって食べられる野菜や果物を植えて、旬のものをいただくのは、とてもおいしいですよ。
 道をまっすぐ行くと、」
 広場はある線で終わり、その先は木々が鬱蒼と茂る「迷いの森」だ。
 だ、はずであったのだが、屋外に立ち真正面に現実を見据えたこのとき、男に見えていたのはかつての印象噂想像とはどこか異なる景色だった。名称に付きまとうおどろおどろしさはどこにもなく、ただ深い緑が広がるだけである。それは神聖な広間を囲うにふさわしい。
 彼ははてと首を傾げた。自分が歩いてきたのは確かに入れば出ることの叶わぬ迷いの森であったはずだ。それがこの有様、記憶があまりに非現実的なものとなる。
「森になります。朝のみずみずしい空気はからだにとても良いです。足がある程度よくなったら、また一緒に散歩をしましょうね。
 森にあちらから入ってしばらくいくと、」
 白手袋の細い手が示す先は、ただ方角が違うだけの先ほどと全く同じ景色である。
「湖があります。生活に必要な水はあそこからもらってきています。澄んだ水はとてもきれいですよ。」
「へえ…」
 男は事務的に相づちを打った。ひとまずそこで「案内」は区切れたらしかったので、彼は追って尋ねた。
「他には、何か見られたものは?」
「そうですね。特にはありませんね。」
 女王の答えはさらりとしていた。男が沈黙していると、彼女は笑みをこぼす。ちっとも恥ずかしくないようすで言った。
「お恥ずかしながら、私の生きる世界はここがすべてなんです。この、半径数十メートルの仕切られた空間が私のすべて。
 たくさんのお花と、きれいな空気と、様々な種類の本と、…」
 そして碧色の瞳は男を見て、ここでやっと恥ずかしげな色をそこに浮かべて揺れた。女王はしまった続きを再度は引き出さない。
 代わりにこう言った。表情は純粋な笑顔だった。
「でも、切り取られたお空も、良いものですよ。私はたまに、1日中見とれてしまうことがあります。」
 男は天を見上げた。木々の頭を額縁にして、青い空がとても「きれいに」見えた。
 その青はただそこにあるだけでそれ以外の何物をも映しはしなかったが、焦点の合わせどころの掴めない「きれい」には、男は素直に恐怖を感じた。せめてこの日は雲が浮かぶのが救いであった。
「1日中、か。おまえも暇だな。」
「ええ、暇です。」
 女王はまたも笑った。男はそれには苛立ちを覚えた。
 道の両脇に、とは言うものの、人の歩くので自然に作られた道だ、明確な区分けがあるでもない。確かに男の両隣に花は植わっていたが、一輪だけ、まるでのけものにされたみたいに道に飛び出て咲く花があった。
 桃色のかわいらしい、小さくて可憐な花だ。それが一輪だけ男の足下付近に咲いている。
 男はそれを見て思い出すことがあったので、不快な気持ちになった。しかし特に何かを考えることはせずに、ただその不快の元を足で踏みつけた。
「あっ」
 花が潰れて死ぬ。女王はその瞬間を小さな「あっ」と共に、口を手で覆って目撃した。
 男はそれを目撃して、女王が、自分の国民が殺された女王が、それでやっと激怒すればいいと思った。激怒という言葉が彼女に似合わないのならそれでもいい、そのときは泣くか喚くかすればいい。
 しかし女王はそのどれにもならなかった。驚きの声を受け止めた手は自然な動作の一環で外され、彼女は表情を戻して歩き出そうとする。
「少しだけ歩きましょう。」
 男が予想外のことに驚き呆けていると、そのせいで歩き出せなかった女王こそがその様子に目を丸くした。
「どうしたのですか?」
 首を傾げて尋ねてくる。あまりにその挙動が予想外であったために、男は素直に答えを与えてしまっていた。
「怒らねえのか? いや、泣くんでもいい。俺はおまえんとこの国民を踏んだんだぞ。」
「どうして私が怒るのですか?」
 逆に尋ね返される。
「私はあなたに怒らなければならないのですか? どうしてですか? その理由が私には分かりません。教えていただけますか。」
「理由、って…。」
 男は言葉の選択にしばし迷った。いったん口を出かけたものを飲み込んで、改めて言う。
「俺が踏んだから、こいつは倒れた。それをやったのは俺だ。」
 女王はただ男を見つめている。
「踏まれたこいつはかわいそうだろうが。」
「そうですか?」
「目的も何もなく、ただ蹂躙されただけだ。それをしたのは俺だ。悪いことをしたのに怒られないはずがない。」
「そうでしょうか。」
「…………。」
「だとしたら私は、毎日踏み締めているこの大地にも頭を下げねばなりませんね。」
 ここでまたも、男は女王の話を聞く側になった。
「大地は踏まれますもの。そこに根を張り生きる彼らとて、そうならない理由がどこにあるでしょうか。
 それに、そもそも、怒るのだとしたら、それは私ではなく踏まれたそのものであるべきはずです。女王といえど私は、罪を犯してもいない者を咎めるほど立派な存在ではありませんよ。」
 そして男は悟った、これもしょせんは女王の一定の決まり事に過ぎなかったのだと。
 花の女王は高貴な存在だ、男が下から引きずり下ろそうとしたとして、かわいい葉っぱの飾りのついた靴で一蹴されておしまいだ。きれいな服に泥ひとつすらつけられやしない。
 女王は男の子供じみた行為などいたずらで終わらせ、そしていつものあのほほえみを貼り付けて佇むのだ。
「あなたは優しいのね。」
 男は閉口した。それを果てなく好意的に解釈して、女王は笑みを深める。
「そうよね、踏まれたら、誰だって痛いもの。あなたは誰かの痛みを分かっている。それをしたあなたは怒られるべきだと言える、あなたは優しいひと。」
「……踏んだ。」
 男はやっとのことで一言、呟いた。
「だが、俺は踏んだ。花を。潰れたよ。」
 彼の足下には無惨な姿になってしまった花がある。男はそれを通して過去を見た。
 人を刺したら死んだ。殴ったら死んだ。突き落としたら死んだ。貫いたら死ななかったが、その後そいつは勝手に死んだ。男の気持ちに関わらず、彼が何かしたら人は簡単に死んだ。
「人も殺した。あいつら、邪魔だったんだよ。だから殺した。
 結果は変わらない。俺が優しい、だって? おかしな話だな、笑えねえ。」
 女王はほほえみを貼り付けたまま立っている。その口が開いて、彼女は囁くように言った。
「あなたは、お花を踏めば私が怒るだろうと思ったわ。それはあなたが踏まれる側の痛みを知っているから。
 あなたは、それでも結果は変わらないって言ったわ。それはあなたが踏まれる側の痛みを知っているから。
 そして、だからこそまた結果は変わらないわ。あなたは知っているの、痛みを。
 そういうことを、優しいって言うの。行為じゃない。目に見えるものじゃない。ただ胸にしまっておくもの。」
 女王は、人を殺して花を踏んだ男に向かってほほえんで言った。
「あなたは本当に優しいひとよ。」
「……胸くそわりぃ。」
 男は舌打ちして身体の向きを変えた。直後に、その背後で女王が動くのが分かる。彼女は男のすぐ背後に寄った。
 男が正当な理由を付けて振り返ると、女王はその場にしゃがみ込んでいた。
「…何だよ。」
「応急手当です。こんなにも無惨に倒れたままでは、かわいそうだから。」
 女王は白手袋の手を土に汚して、男を見上げてにこりと笑った。
「おまえはやっぱり怒るべきなんだよ。」
 だって俺は、おまえの大切にしている花壇の花を駄目にしたんだから。男は女王を見下ろして言った。
「わたしの……」
 女王は呟く。するとそこで男の驚いたことに、彼女はぼっと顔を赤らめたのだった。
 そして彼女は立ち上がる。
「そっ、そんな! 私のことには気を遣っていただかなくても結構ですのにっ!」
 大きく開いた口がべらべらとまくし立てて、目はうるみ、両手が手の平を男に向けて振られる。
 男は驚き、女王の豹変にあまりにも驚いたために、まぬけにも口をぽかんと開けて突っ立っていた。彼の目の前では女王がまるで何かに弁解するようにしている、要するに戸惑っている、要するに慌てている、つまりは照れている。
「あ、あの、花壇は……べつに、お手入れすればいいので。いいんです。いいんです! それに、」
 そして女王はその後、真っ赤なほっぺのまま、きびすを返して家に駆け戻ってしまったのだった、捨てぜりふはこれにして。
「今は、あなたがいるから! 寂しくないです!」
「…………。」
 松葉杖の男はその場に立ち尽くした。彼の両脇には花壇や畑がある。果物とか野菜とかがみずみずしく実っている。花が生き生きと咲いている。
 家に帰るには階段を上がらねばならない。最初これを上ったときも、本日これを下ったときも、女王の補助があった。今一度これを一人で上るのは、少し心許ない、ように思われる。
 と、そこまで男の思考がいきかけたとほぼ同時に、家の扉が勢いよく開いた。そこから出てきたのは、元よりここに他の住「人」はいないのだが、花の女王である。
「すみません、気が回らなくて。」
 しかし扉の開き方の激しさに対して、声はいっとう穏やかだった。それはいつもの女王のものである。
 彼女は静かに階段を降りると、男の側まで歩み寄り、自然と彼の歩みを支えた。男は何も言えずにただ支えられて歩かされる。
 家に戻りしな、女王が男に言った。そのときの彼女の表情は男には見えなかった。
「優しくしてくださって、ありがとうございます。」


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