「…女王?」
 花かと思った。しかしそれは女王の頭だった。
 大きな花のベッドの向こうに女王がしゃがみ込んでいるのだった。花を模した冠だけがちょこんと飛び出て見える。
「はっ、はい、何でしょう。」
「とっくに、治療の時間なんだが。」
 女王の治療は毎日定時に行われる。正確な時間を示すものはこの場にはなかったが、かえってあまりに何もないために、男には決まった時間を知ることができるようになっていた。
「あっ、そうですね! ごめんなさい、うっかりしていました。」
 花が上に上がり立ち上がって姿を現したのはやはり女王だった。ぱたぱたと駆けて準備をしてから、いつものように男を座らせ自分も座る。
「わあ、だいぶん良くなっていますね。」
 骨折した脚と腕の固定は、初期に比べればずいぶんと簡素なものになっていた。このままいけば程なく完治しそうである。
 また、身体のそこかしこにある傷もずいぶん癒えてきていた。女王の言葉どおり、「だいぶん良くなって」いた。
「…………。」
「経過は順調ね。私もとてもうれしいわ。」
「…………。」
 女王は程良く明るく言って、それから不意に言葉を詰まらせた。
「……その、先日はごめんなさい。びっくりして、取り乱してしまって。」
「…………。」
「……あの、怒っていますか?」
「何で俺が怒るんだよ。」
「だって私、あなたにとても失礼な態度をとってしまったから…」
 見ると、女王は絶妙な角度で顔を傾けて、暗い色を表情に浮かべている。
 それらはやはり「きれい」で、男にはとても手の届かないところにあるように思われた。姿形は目の前にあるというに、手を伸ばしてもそれは雲を掴もうとするがごとくに不可能なのだ。白く見える水蒸気はただ霧散するだけだし、そもそも空には手は届かない。
 だから男には、女王曰くの「失礼な態度」すら、どこか遠くにあるように思われてならないのだった。あれは自分とは関係のないところで関係なく始まり関係なく終わったに過ぎない。それで怒れなどと言うのは、花を踏んだ男に対するより遙かに、無理のある話である。
「怒らねえよ。どうでもいい。」
「でも、本当にごめんなさい。それに今日だって、気が動転していて、治療の時間をすっかり忘れてしまいましたし。ごめんなさい。」
「……おまえ、意外と、根に持つタイプなんだな…。」
「え?」
 男はただひたすらに面倒で、ぼそりと呟いた。聞き返されたのに答えるのだっておっくうだ。
 代わりに何を言おうかしばらく考えて、それから、その間心許なげに黙っていた女王に告げた。
「どうでもいいんだよ。俺は花の女王でもなけりゃ、聖人君子でもねえ。
 おまえの態度が失礼だって言うんなら、俺は俺の態度をおまえにどうやって償えばいい? 土下座して床に穴でも開けてやろうか。」
 しばらく意味が分からない様子で目を見開いていた女王だったが、男がちゃかすように言ったことに思い当たるまでにはそう長くはかからなかった。彼女は小さく噴き出して笑った。
 それから言った。
「ありがとう。」
 そして、おかしくて生まれた笑顔に嬉しくて生まれた笑顔が付け足された。
 男はそれには具体的には応えなかったが、治療を受ける傍らで、この笑顔を作りだしたのは自分であることを我知らず喜んでいた。


 *


「……雨だ。」
 久しぶりの雨である。ここでも雨は降るのかと最初は感慨深くもあったが、数度目になる今日はそれもなくなっていた。男はぼんやりと窓から外を眺めた。
 するとその直後くらいに、家の扉が勢いよく開き、その勢いのまま女王が飛び込んでくる。
「どうしたんだ、女王。」
「あ、雨が……」
 しかし女王の姿は見えなかった。ただ彼女のいると思われる位置に、脚の生えた白い固まりがあるだけである。
「良いお天気だと思ったから、洗い物をたくさんしたのに……」
 話すときにも白い固まり、もとい洗濯物を山ほど抱えた女王は歩く。時折バランスを崩してふらつきながら。
 女王は転ばん勢いで洗濯物を床にぶちまけた。場所はどこであれ屋内にありさえすればいいといったところか。
 そして男が何か言う前に、女王はまた出ていってしまった。しかしすぐに戻ってくる、また白い固まりになって。
「忙しい、忙しい…」
 無意識になされた呟きを、男はぼんやりと聞き取った。
 女王はもういい加減何度も往復していたが、元より干した洗濯物は多かったらしい、まだまだ終わりは見えないようである。もうこれだけ時間も経てばほとんど濡れてしまっているだろうに、彼女は不毛な往復を続けた。
 ばたばたと慌ただしいのを見ているうちに、男はだんだんといらいらしてきた。胸の奥底に重たいものがわだかまって彼をいらつかせる。その間に女王は出たり入ったり出たり入ったりした。
 女王自身がすっかり濡れてしまった頃に、男は怒りのままにこう言った。
「おい女王。ばたばたとうるさいな。手伝ってやる。」
 言ったとたん不思議なことに、男の心はすっと軽くなったのだった。わだかまっていたものはきれいさっぱり消えてなくなってしまう。
 全くそれは不思議なことではあったもののそれに追求する暇はない。いらいらの解消された男は、しかし、言ってしまった手前引けずに女王に歩み寄った。
「お気遣いありがとうございます。」
 女王は洗濯物を男に手渡した。仏頂面でそれを受け取った男は、白い布の山(いったいこの家のどこにこんなものがこれだけあったのか、甚だ不思議である)を一層高くした。
 さあ外に行こうと彼が振り返ったとき、女王は動かずに男に笑顔を向けて言った。
「今のもので最後です。お手伝いありがとうございました!」
「!  なんだよ、それ…」
 男はがくりと肩を落とした。いらいらはしないが胸にもやが生まれる。
「これから洗濯物を畳むの。」
 女王は言った。
「よければ、それを手伝ってはもらえませんか?」
「…………。」
 男はしばらく考えた。布を畳むことなど、横目に見なくても済むし、うるさいのが気になることなんて有り得ない。
 しかし彼の答えはこれだった。
「いいぜ、手伝ってやる。」


 *


 ひとつ外すと他も外れる。しかし最初のひとつが外れたのは、それ以前から男のストッパーが緩くなっていたからに他ならなかった。
 一日目だったら外れなかった。二日目でも外れなかった。三日目でも、四日目でも、五、六、七、…、日数を数えることなどを止めるほどにはここでの生活に慣れて、そうしてやっとそれは外れた。
 ひとつ外すと他も外れる。すると他のすべても簡単に外れる。最初に何が外れたのかは、男に分からない限り他の誰にもずっと分からない。
 何もかもが外れてしまってから、それは明確にはいつからかは分からなかったが、何度も何度も日が昇り沈みを繰り返した。
 だから男は女王とたくさん話した。
 だから男は女王をたくさん手伝った。
 だから男は女王とたくさん過ごした。
 けががだいぶんよくなって、戦うことは無理でも日常の茶飯事程度なら行えるようにはなった頃、人生で生まれて初めて男は畑仕事をした。女王と一緒にだ。かつては泥にまみれる姿を蔑んだ農民のように、むしろ彼ら以上に泥だらけになって(鍬や鍬を振るうことももちろん初めてで、男は順応性が低かった)働いた。働いて汗を流した後の食事は実においしかった。
 また、興味があったので、家にある植物についての話も聞いた。実体がどうであろうと女王の植物好きは本物のようで、彼女は植物のこととなるととたんに饒舌になって話した。その予想以上の博識さに驚きもした。
 女王も、男も、基本的には広場の外には出なかったが、広場を少し出たところに泉がある。そこのきれいな水で身体を洗うのである。
 男は今日も今日とて泉に行く。それはいつしか定時にすることになっていた。
 女王に一言告げると、告げただけなのに、彼女は当たり前のように着替えと布を持って来る。それを当たり前のように受け取って、男は女王の家の扉を開けた。もはや、一人での歩行など何ら問題なくこなせる程に回復していた。
 行ってくるなと言うといってらっしゃいと言われる。見送られる。
 男は階段を降りる。道を歩く。森の中に入って少し歩けばすぐに目的地に到着する。
 衣服を脱いで泉に入る。顔を洗う。髪を洗う。
 今日の昼食は何だろうか、そんな思考が頭に浮かぶ。身体を洗いながら考える。そういえば昨日食べたサラダは組み合わせが絶妙でおいしかった。
 明日は女王と何をしようか、そんな思考も頭に浮かぶ。今日はきっとあの野菜の収穫があるはずだから、そこに次植えるものを考えなければならない。花でも果物でもいい、あそこはあまり配置にはこだわられていないから。
「(そういえば、珍しい花があるという話をしたな。それがどんなものか気になるな、それを植えることにしようか。)」
 そして男は一度、泉の中に頭まで浸かる。本来ならばすぐにまた上がるはずなのだが、このときに限ってその気にならない。
 音のない音が聴覚を満たして、時間ばかりが過ぎて、そのうち息が続かなくなるので自然にまた浮上して、




「俺はいったい、何をやっているんだ……」
 男は言葉で絶望を吐き出して、天を仰いだ。腕で水面を打ちつけると跳ねた水が滴になって、太陽の光を浴びてきらきらと光る。濡れた髪からも水滴がたれる。
 女王の広場では円形に切り取られてすっかり見える青空が、ここ泉でも見える。
 その青空が、素直に怖い。
 果てが見つからず焦点を合わせることのできないきれいな青が。…そしてそれをきれいだと思う自分自身も。
 森がきれいに見えるのだ、森が。迷いの森が。
 最初は、女王の広場から見たからだ、と思った。広場に漂うあの神聖な大気が男に一種の魔術をかけたのだと思っていた、そう思い込んでいた。
 けれども今はどうだ、男はたったひとり、迷いの森の泉のど真ん中に素っ裸で突っ立っている。そこは確かに女王の広場から近い場ではあったが、それでも森の木々が幾層か連なり間にあって、広場を視認することはできないのだった。
 水は底が見えるほどきれいに澄んでいて、背の高い木々は男を圧迫感なしに包み込む。梢は空を切り取る円形の縁に芸術的な模様を描き出しており、差し込む日光は光の帯となって泉を照らした。
 この森は「きれいな」ものなのだ!
 それはただどこまでもひたすらにきれいなものだ。あまりに絶対的で権力が強すぎて、男なんかでは汚すことができない。
 せめて目を背けようとしても、その絶対性の前では実に無意味である。彼は既にこの「迷いの森」に取り込まれてしまった(その点では確かにここは「迷いの森」なのかもしれない、現在全く関係のない思考であるが彼はそれを心に浮かべて自嘲した)。ただそのきれいなことの前に平伏し、煩悶に胃や胸を焼かれるしか道はない。
 その性質を認める気などなかったが、実は、男はきれいなものが嫌いだった。
 嫌いだと思っていたのも、それを認めることから逃げていたのも、他でもない、自分こそが汚いと思っていたからだ。
 きれいなものは汚すためだけにある。幼い子供が真っ白のシーツを泥で汚して笑うように、男は、きれいなものはすべてこの手で汚さなければ気が済まないのだった。きれいな女を欲したのだってそれが理由だ。どうせ本当の意味では手に入らないそれを、彼は汚すことで手中に収めた気になった。
 だから彼の前にはきれいなものは残らない。汚い顔、汚い心の汚い仲間(そう呼べたのかどうかも今では疑わしいが)。汚い土地。汚い金。汚い時間。汚い過去。
 本来ならばそうなのである。しかしそれでも世界はなお広く、当然のように、どこにでも、彼なんかの手には汚されないものがあった。それこそが、男の無意識的に嫌う、「きれいな」ものである。その最たる例が、誰の手にも汚されないサンクチュアリ、いわば聖地、つまるところのこの女王の花の国である。
 だから彼は、ここが嫌いだ。ここも、ここに住む女王も、そしてここに住まわされる自分自身も。
 彼が何よりも誰よりもどこよりも汚したかったのは、彼の肩から生える先にある自分自身の手であった。
 自身の手をきれいに思っていた、わけではもちろんない。ただ、常に手を汚し続けることで、本当に汚い自分自身から目を背けていただけだ。
 浄化することなどできるわけがない。だから、彼は、昨日よりも今日、今日よりも明日、明日よりもその先へ、とにかく手を汚し続けた。それはつまり、今日よりも昨日がきれいであったことと同義である。だからである。
 それが今は、どうだ。男は自身の手のひらを見やる。たくさんの人を殺してきた、汚れている手だ。
「(……きれいな手だ。)」
 きれいな土地ときれいな空気、要するにきれいな環境で長らく療養したからではない。物理的な理由だけではない。
 指ばかり長くて節くれ立った不格好な自分の手が、きれいなのだった。
 きれいな少女の手と繋ぎ合わせた自分の手が、きれいなのだった。


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