街を探して酒場に入る。もはや一種の鋳型と化したその行動を、男は再度繰り返した。
 確信のようなものは確かにあったのだった。先日の死んだ街からの距離、方向、立地条件、全てを考慮に入れると、ここ以上に通過点としてふさわしい場所はない。
 しかし確かな信念があるからといってどうにもならないのがこの現実で(だから男は今の男になったわけだが)、半ば諦めていたのが本当のところだった。こうも時間が建ってしまった今、もはや、どこへ行ったとも知れぬ他人を探し出すことなど不可能に等しいと。
 だから、がらんどうの意地と空っぽの義務感で男が、多少の違いはあるもののおおよそは先日訪れたのと似通った街の中心部から少し離れたところにある酒場の扉の前に立ったとき、目的到達の喜びや驚きよりも前に、疑問を抱いたのだった。
「(どうしてこんなにうまくいく?)」
 壁に背中を預けて頭を抱える。対して厚くもない壁を抜けて聞こえる男たちの下卑た声。その中に男は紛れもなくあのときの銀髪の男の声を聞いた。
 男には恐ろしかった、彼の自らの経験を元にした予測がこうも事実を言い当ててしまうことが。
 自分ならこうした、こうするだろう。積み重ねた歴史の長い経験則に支えられて男は今ここにいる。それはすなわち彼が建物の中の彼らと同類であることで、男にはここまでの道のりは全てそれらを証明するためのものであるような気さえしてきてこの上なく気分が悪いのだった。
 しかしここで男は反射的にある思いを抱いた。気分が悪い、そう感じる自分に対する疑問である。気分が悪いのは自分と彼らが同じであることをまざまざと見せつけられたからである。しかるに、自分と彼らが同じであることをまざまざと見せつけられて気分が悪いのは、自分と彼らが同じでありたくないと願い心があるからに他ならない。
 それは男にとって目を背けるに足るだけの思いだった。自分と彼らは同じである、そんな認識など最初から明らかにあった。出会ったときも、別れたときも、追いかけたときも、同様にである。それがなぜ今になって、暴かれたくない不愉快な事実となり果てたのか。問いは純粋な問いかけではなく自身への非難だ。おかしい、何を思っているんだ自分は。
 男はそれら全てから逃げ出そうとして今この現実を見た。自分がここに立っていて、取り返そうとしているものがあって(その経緯は気にしてはいけない)、それを持つ人物が建物の中にいる。要点はそれでじゅうぶんだ。
 そして男は目的を遂行するためにそれ相応の手段を考えなくてはならなかった。彼らと似たような人物としてではなく、考える頭を持った理性的な人間として。
 男は彼らと同類であるとは認めたくないことは認めたくなかったが、だからといって正義の徒であるわけでもないことは難なく自覚していた。殺人や略奪およそ「悪」とされ得ることを日常茶飯事にしている彼らを打ち倒そうなどとは微塵も思っていない。用は自分自身の目的、彼らの奪った本を取り返すこと、が達成されればそれで何ら構わないのだった。
 であるからして、今ここでこの扉を開けて真正面から彼らの中に突っ込んでいくことはまるで論外である。男が用があるのは最低限ではあの銀髪の男とその仲間だけだ。
 男は考える。結局あのもの彼らがをどう処理したかが想像もつかない今、直に人間に話を聞くほか自分にはどうすることもできないだろう。それには大勢はいらない、銀髪が一人いればよい。それではどのようにしてあの群れた男達の中から銀髪一人抜き出すか。


 数時間後男が酒場の扉を開けると、やはり予想どおり、中の男達はみな酔って眠りこけていた。机で床で、カウンターで。まさにならず者である。
 だから男は中に足を踏み入れて、あの特徴的な銀色の頭を探した。若くてそれなりには造形の整った顔が眠っているのを、たくさんいる中から見つけだそうとした。あとは首根っこでも捕まえて引きずり出そうとしたのである。
 部屋の角の机から始めて対角にある観葉植物まで見て回ったところで、果たしてそれは見つからなかった。
 男はさして驚かなかった。実際彼は時間が経つのをずっとこの酒場の前で待機していたわけではなかったから、その間に用を足しに外に出てもおかしくはない。それならむしろ起こす手間が省けて好都合でもある。
 男は入ったときと同じくして静かに扉を開閉し、外に出た。
 そして思ったとおり外から戻って来た銀髪の男を、男は酒場の扉の前で待ちかまえる。
「男と待ち合わせしたつもりはねえんだが。」
 銀髪は小さな声でそう言った。整った顔立ちによく似合う整った声の小さな振動は、静かな夜闇に紛れて溶ける。
 男も同じく小さな声で返した。
「悪かったな。だが俺は、おまえが男だろうと女だろうと構わねえ。出すもん出しな。」
「出すもん?」
 銀髪は眉を潜めた。
「本だ。赤銅色の装丁の、大きめの版の分厚い。持ってっただろう。」
「ああ、そうか、おまえはあのときの」
 銀髪は何か記憶を探るような素振りを見せた。記憶の中に男の影を見つけたのだろうか、見ている男には分からない。
「何でもいい。それを返せ。」
「売っちまったよ、あんなもん。」
 素っ気ない言い回しに男は一瞬唇を震わせた。ここまで彼を駆り立てた目的が瓦解しそうにはなったが、すぐに男自身が取り戻す。
「それは違うな。あんな金にならねえもんをわざわざ売る利点がない。捨てるにしたって、もともとわけの分からねえ意地で奪ったもんを、おまえ達がそう簡単に捨てるはずもない。まだあれから日が浅い、おおかた、整理もしてねえ荷物の中に紛れてるんだろう。
 どのみちおまえ達には不要なものだ。よけいな荷物を引き取ってやる。返せ。」
 男の頭には、なるべく相手を刺激しないようにという意識はあった。とはいえ相手が相手なのである、下げる頭も並べ立てるお世辞も用意してはいない。事実を並べて要求することが男の最大限の譲歩だった。
 銀髪は表情を特に変えずにひとつ頷いて答えた。
「なるほどな。そのとおりだ。荷物に突っ込んだままどうもしてないから、どうもなっていないんだろう。いいぜ、ゴミをおまえに返してやる。だが、そこまで分かっているんなら、俺が何の見返りもなしにおまえの願いを聞いてやるほど育ちが良くないってことも、承知の上だろう。その点についてはどうなんだ。」
 男はさほど驚かずにその言葉を受け入れた。そしてやはり、ただ事実を述べる。
「俺にはおまえにくれてやる金もねえ。」
「金も身分もプライドも、力も過去も魂も。」
 あれだけ人から奪いに奪ってきたというのに、今の男には何も残されてはいなかった。いや、もはや、「今」さえも残されていないと言ったほうが正しい。
 しかし銀髪は静かに口を開いた。その話しぶりは、彼自身が言うほどに「育ちの悪い」ものではなかった。
「俺はおまえの過去を知っている。
 森で会ったときは、あまりに附抜けたツラをしていたもんだから、気付かなかったがな…。やはりおまえにはここみたいな夜の闇がお似合いだぜ。」
「…………。」
「おまえは俺らの同類だ。おきれいでご立派な聖域でままごとしているよりも、こうして俺に血に飢えた目を向けるほうが本業だ。」
 銀髪の話を黙って聞いていた男は、ここで不愉快な思いを隠せずに小さく舌打ちした。彼は目の前の人間を見る目を変えようとしたが、他人を見る目など気にかけたことがない男にとってそれは至難の業だった。
「人の噂によく聞くよ。盗み脅し殺し、汚いことは何でもやってのける、盗賊団“鮮血の狼”。団員は山ほどいた大盗賊団だったが、半年前にリーダーを失って名目的には解散、だけど今じゃ残りのメンバーが名前だけ変えて同じようなこと繰り返してやがる。
 しょせんは名前だけのリーダーだったってことだな。で、」
 銀髪は男の胸ぐらを掴み引き寄せた。それが攻撃するためのものではないと悟っていた男は動かない。
「…………。」
 男はすぐ目の前の青い瞳の中に映った自分を見て、非常に不愉快な気分になった。
「そのリーダー、ワーミンが、今更どうしてここにいる?」
 銀髪が手を開いたので男は解放される。
「それを俺に納得できるように説明して、それがおもしろかったら、本は返してやってもいいぜ。」
 そして次は男が手を伸ばす番だった。銀髪の胸ぐらを掴み上げて引き寄せる。銀髪の男の持つきれいな青い瞳に言う。
「推察どおり、俺も育ちは良くはないからな。力づくで事を運ぶこともいとわないぞ。」
「おっと。」
 胸ぐら掴む手の首に違う手が伸びる。銀髪は手首を掴んだ手に力を込めて握った。
「できるのか。俺らにただ従うしかなかったおまえが。」
「あのときは、あの女の前で血を流させるわけにはいかなかったからな……。」
「後は、“ワーミン”を、見せたくなかったからか? おもしろいこと言うな、おまえ。」
 小さく鼻で笑った後、銀髪は実際におもしろそうに笑った。そしてその顔が俯き、小さく肩が震えて、手首を掴む手が開かれたとき、先手を打ったのは男だった。
 掴んだままの胸ぐらを引き、額と額とをぶつける。どちらの男のものとも知れぬ呻き声が漏れ、身体と身体が離れた間に赤い滴が舞う。
 間髪入れずに距離を詰め、首根っこを捕まえる。掴んだ腕を引いて身体の向きを変えて、男は銀髪の男の身体を建物の壁にぶつけた。
 捕らえた首を離さずに、締め付けるようにして壁に押しつける。
 銀髪は目だけを男に向けて口を開いた。
「音を立ててもいいのか? 俺の仲間が起きちまうぜ。」
「“仲間”だと? 笑わせる。おもしろくねえ。」
 男は笑わなかった。
「そのときはおまえを人質にでもして本と交換するだけだ。」
「効果があると思うのか?」
「たかが本一冊、仮にも集団の構成員の命と引き換えなら、条件を飲まんこともないだろう。」
「人数には絶対的にこっちに利がある。おまえなんぞ簡単にあの世逝きだぜ。」
「その前におまえをあの世に送り出してやる。それだけはいやだろう。」
「いいのか。俺を殺したら本をとってきてくれるヤツがいなくなるんだぜ。」
「上等だ。本一冊盗み出すくらい訳がない。」
「…あーあ。」
 銀髪の最後の返答はそれだけだった。そして彼は冷めた声で勝手に話し始める。
「カウンターの裏にでかい荷物袋がある。それの向かって左から三番目、他のより一回り小さい麻の袋のカウンター側の端に入っている。連中もすっかり酔いが回っているからおそらく他人の顔の見分けなんてついてねえ。変に忍んだほうが怪しまれるぞ、足音は立てるくらいで歩いて行け。」
「…………。」
「信じるか信じないかはおまえ次第だ。ま、俺の知ってるワーミンは、部下の言葉になんぞ耳も傾けねえ、リーダーとしてはずいぶんと愚かな人間だったがな。」
 男は手を離した。解放された銀髪が小さく咳き込み、それと同時に男は呻く。鳩尾に深々とめり込んだ他人の拳を視界に入れて、喉に胃液が込み上げるのを感じて、ここで男は昨日からろくに食べていないことを思い出した。
 銀髪は拳を引くと同時に反対側の拳を使って男の頭を横から殴りつける。脳が揺さぶられ視界がぶれる。倒れる勢いは追い打ちをかけられたことで増す。男の身体は地面に打ちつけられ、その腹を銀髪が強く踏んだ。
 男は無意味に咳き込んだ。こみ上げた胃液だか唾液だかが行き場をなくして気管に入り、さらに反射は続く。何度も何度も咳をして、ふとあるとき男は自分を見下ろす銀髪の姿を見た。夜空を背景に銀色の髪が輝き、影になった顔の表情は読みとれない。だがしかし、
「おい、ワーミン。」
 しかし、彼がいったいどういう目で自分を見下ろしていたか、男にはよく見ることができる。
 常に変化を追い求め、力でもって大地を駆ける、血に飢えた獣の目だ。それが冷たく男を見下ろしている。
「うるさい。俺をその名で呼ぶな…。」
「ああ、おまえにはないんだったか、過去は。名前といっしょに捨てたのか?」
 銀髪の言葉はまるで、男に優しく問いかけているようでもあった。男は質問に答えた。喉に異物が絡んだ状態で出される声がひどく間抜けだった。
「違う。嫌いなんだよ、その名前は。ひどい由来があるもんでな。」
「けっ。笑わせるぜ、ワーミンよぉ。」
 銀髪は忌々しげに吐き捨てる。笑わない。懐から短剣を取り出し、眼下の男、大地に背を付けて無様に踏みつけられる男に刃を目を向けて言う。
「どうしておまえが今こうなっているか、分かるか。それはおまえが甘ったれたからだ。
 おまえに似合うのはこういった雰囲気だ。誰もが私利私欲のために群れて動いて、足を引っ張り合って、機会さえあれば引きずり下ろそうとする。そんな中でいつでもおまえは先陣を切って走っていたな。それなりには長くその地位についていたな。それが終わっちまったのは、まあ、悪運だ、運が悪かった、機会に恵まれなかっただけだ。それが現実ってもんだな、しかたねえ。それはおまえ自身もよーく分かっていたはずだろう。
 それがどうだい、今は。おまえの目はこの世界を忘れていねえ、おまえの身体はこの世界を覚えている。なのにおまえの心はここにはない。いったいどこに置いてきた? あの女のところか?」
「そんなわけあるか。」
 男はそれだけ言った。しかし銀髪の表現を借りて男の心が今ここにあるかと問われれば、それに頷くのは今の彼にとって気分の良いものではない。
「俺が甘ったれただって? 少々おしゃべりが過ぎるぜ。」
 しかし男は愚弄された。心に怒りの炎を灯すには、その事実だけで十分足りる。男は自身の腹の上にある足首を掴んだ。
 甘くなったつもりは毛頭ない。馬鹿にされたまま負けるつもりはもっとない。
 何をしてでも勝てばよい。結果生き残ったほうが勝ちである。これまで信条のようなものとして掲げてきた法則が、今一度男の胸に宿る。過程は元より全ては結果だ。その思いを再度燃やすことができる今、まさか自分が甘くなったわけがない。負けるわけがない。
 しかしその燃え方が従来とは異なっていることに、燃えている張本人である男が明確に気付くことはけしてなかった。例えれば昔が黒くくすぶる不完全燃焼であるのなら、今は赤く輝く完全燃焼だ。愚弄により傷つけられたプライドじみた心を種にして、いたいけな少女の宝物を取り返すために、男は正義の炎を煌々と燃やすのである。
 しかしその事実は誰にも気付かれない。
「けっ。」
 掴んだ足首が動き、いとも簡単に男の手はほどかれる。
 その瞬間、銀髪の意識が少なくともある程度は自身の足首に向かっていたその一時を狙って、男は自分の身体の丁度真上に位置する銀髪の股間を蹴り上げた。
 男性でこの衝撃が堪えない者はいない。痛みに慣れている人間でも、男がその下から逃れて体勢を立て直し腹に突きを入れるだけの隙はできた。
 銀髪がくぐもった声をあげる。男は彼の右手が緩んだためにそこから抜けそうになっている短剣を抜き取った。
 それを自分の手に構え直して、特に何も映してはいない銀髪の青い目を見て、どこぞの少女の碧い目を思い出して、その少女の口が動いて何事か発したのも思い出して、けれども全ては一瞬のことに終わり、結果として男は全ての動作を連続して行い、すなわち間髪入れずに銀髪の腹を短剣で刺した。
 短剣は相手の腹に残し、男は目の前の男の身体を蹴り付けて、踏ん張る力もなかったのか銀髪はあっけなく倒れる。
 男は別にその腹を踏んで追い打ちをかけようともしない。ただ静かに、倒れる身体の横に立つ。
 銀髪の男は浅い呼吸を繰り返していた。口の端から血のようなものが垂れてもいるし、打撃を受けたときの痛みもまだ和らいではいないのだろう、その身を束縛するものがなくとも動かない。
「おい、ワーミン。」
 しかし身体は動かずとも口は動いた。その口で男の名前を呼んだ。男が遠い過去に捨て、忘れようとした、けれどもどうあがこうとも男自身のものである、名前を呼んだ。
「俺をその名で呼ぶなと言ったろう。殺すぞ。」
「…殺せねえよ、おまえに俺は。目を見ればわかる…。」
「…………。」
 銀髪はもう一度言った。言葉の隙間に乾いた空気の音を混ぜ込みながら、誰も静止しなかったためによく喋った。
「目を見ればわかる。おまえはこっち側の人間だ。どんなにきれいに世話されたって、生まれもっての性質は変わらねえ…。
 なあ、ワーミン。おまえには無理なんだよ。今はあの花みたいな女にそそのかされて善人になる夢を見てるかもしれねえが、夢は夢だ。現実にはなりえねえ。
 おまえはこっち側の人間だ。それだけは忘れるなよ、ワーミン。」
「…………。」
 男は端正な顔した銀髪の男を鬱陶しい思いで見た。しゃがみ込んでその腹から生える短剣を抜くことも考える。しかし考えただけである。
 口から空気の音を出し入れし続ける銀髪をその場に置いて、男は酒場に足を踏み入れた。特に遠慮はせずに足音を立てて歩き(途中で寝ぼけた一人に何か囁かれた。一言「うるせえ」とだけ言ったらまたすぐに寝た。無意識のうちに声音でも覚えていたのだろうか、いやに従順なものである)、カウンターの裏にいくつかあるでかい荷物袋のうちの、向かって左から三番目、他のより一回り小さい麻の袋を開けて、カウンター側の端を探った。色とりどりの宝石の類が出てきた。男が面倒に思って袋ごとひっくり返すと、反対側の端から本が落ち、どすんと重い音を立てた。赤銅色の装丁の、大きめの版の分厚い本だった。
 当然と言えば当然であるのだが、男が用を済ませて酒場を出たときにも、入ったときと同じ場所に銀髪の男が倒れていた。
「見つかったのか。かわいらしいお姫様のご本は…。」
「てめえ俺を騙したな。カウンター側じゃない端から出てきたぞ。」
「そりゃあ悪かった。大方誰かが、俺が触ったあとで袋を回転させたんだな。」
「…………。」
 そんな身体状況でもあるまいに、妙におどけた調子で離す銀髪を、男は黙って見下ろした。殺せねえよ、おまえに俺は。その本人の言葉が蘇る。
「…また俺を、騙したな。」
「は?」
 男は苦い思いで舌打ちした。そして銀髪の男の脇に歩いて寄ってそこにしゃがみ、短剣を腹から抜き取る。血に染まった白銀の刃が夜闇でどす黒く閃き、腹の傷から一度だけ噴水のように、ごぼ、と血が噴き出した。
「て、てめえ…!」
 銀髪の男が慌てた様子を見せるが、立ち上がり男を殴り付けることも、仲間とやらを呼ぶために大声を出すことも、今の彼には不可能な仕事であった。
 男は表情を変えずに、刃を赤く染める血を、銀髪の服を使って拭い取る。さらに彼の腰からベルトごと鞘も奪う。
 勢いこそよくないが、銀髪の腹からの出血は止まらない。このまま放っておけばいずれは失血死だろう、既に心なしか銀髪の顔は青白い。
 男は短剣をしまった鞘のついたベルトを腰に留め、一つ溜息をついた。そしてそれから息を深く吸った。そしてそのあと口を大きく開けて、叫んだ。
「火事だー! 酒場が燃えている!! 早く逃げないと死ぬぞ!!」
 ほんの少しの空白のときがあって(このとき銀髪は小さな声で何事かを呟いた)、まず最初に酒場の中で何かが落ちる音がする。しかしそれは単なる出だしに過ぎない、続けてすぐにざわめきが起こり、扉が開いて人間が出てくるまでに時間は全くかからなかった。
 しかしそのときにはもう、酒場の前には一人の重傷人しかいない。先頭を切って飛び出した者が真っ先にそれを見つけ、賢明な判断ですぐに手当を始める。
 誰も、通りを走り去る男には目もくれない。男は自身の手で取り返した本を手に走る。その心に、男が大声を張り上げて中の人間を呼び出してから実際に人間が飛び出してくるまでの間に、動けない重傷人が口走った言葉がしつこく染み着いて、中々離れようとしなかった。
「……名前だけのリーダーだろうと何だろうと、俺は、おまえに憧れてたんだぜ。」
「(知るか、そんなもん! もう昔のことだ。俺は知らねえ、俺には関係ねえ!)」
 男は走る速度を上げ、全力を出してその言葉を振り切った。そして本来の目的である、これから帰るべき場所とそこにいる少女を心に浮かべる。
 過去を捨ててただ無心になって走るこのとき、なぜか彼には、それだけで心が安らぐような気がしていた。
 男は小さく口に出して言った。過去も今も未来も全てを忘れて、ほんの少し先のこれからだけを見て、愛しいその名前を呼んだ。
「今帰るからな、ラワーフィ。」


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