結局事態は何一つ変化しなかった。 「ワーミン。」 ワーミンは別に狙い定めたというでもなくちょうど偶然自分より背の高い本棚の前に立っていた。そしてこれももちろん狙ったわけではないのだが、その視界には本棚に収まりきらずに横たわって背中を飛び出させている赤銅色の装丁の分厚い本があった。 「ワーミン。」 与えられた瞬間から忌み嫌って変わらない名前を呼ぶ人間は、最初は母、次に父、教育係、メイド、学校の生徒や教官、と次々に増えて減って変化していった。しかしそれら全ては記憶の彼方に遠ざかる。彼にとって最も記憶に新しく最も心に色濃く残っているのは、血の中の最期の声に酒と金の臭いのする猫撫で声、そして同じような顔したたくさんの人間の使う、同じような声だ。 ワーミンが自身の名前を嫌うのは、その由来が全くもって酷いものだったからだ。けれどもそれは子を憎んだ親に不幸を願われつけられた、というのでもなく、単に彼の好みにそぐわないだけではあった。しかしだからこそワーミンは純粋にその名前を忌みて嫌った。 それなのになぜ彼がその名前を家と国と名誉と共に捨てなかったかといえば、ただ呼ばれ慣れていたから、というだけである。生まれてから二十と片手と少し、彼を表すにその四字の単語は絶え間なく使われ続けたのである。 だからワーミンは名前を捨てなかった。ワーミン、ワーミンと呼ばれ続け、当然のごとく、それは彼の心の奥深くに根付いた。 ワーミンがついに名前を捨てたのは森に足を踏み入れたときだった。さもなければ生きることができなかった。ただ偶然彼があのときあの地点に立っていたから部下であったはずの男に身代わりにされ死にかけたあのときである。 家を捨て国を捨て名誉を捨て、様々なものを捨てた彼が今度こそ名前まで捨てたというに、ここにきてそれを引っ張り出してきたのにはわけがある。 一つには銀髪の男等に思い出したくもない記憶を掘り起こされたこと。 もう一つには、 「ワーミン。」 やはりそれが都合が良かったからである。「ねえ」だの「あなた」だの呼ばれるよりは、はっきり名指しで呼ばれたほうが明白で爽快であるとワーミンは思っている。 しかしそれは失敗だったかともワーミンは思っている。目の前の赤銅色の装丁の本を見ながら思っている。というのは。 「ねえ、ワーミンったら!」 少しばかり大きな声がワーミンを呼んだのを、ここにきて彼はようやく認識して振り返った。 しかしその振り返る表情はとても穏やかなものではない。警戒一色で塗りつぶされた緊張した様子で、彼は俊敏な動作で顔を裏に向けた。 そしてそこから緊張が抜けるのも共に俊敏である。ワーミンは長く息を吐き出しながら言った。 「…おまえか…」 「なによ、どうしたの。私は、その本がどうかしたのって聞いていたの。」 しゃんと背筋を伸ばして立っていたのはラワーフィである。碧い瞳で真っ直ぐにワーミンを見て真っ直ぐに言葉をぶつけてくる。 「あ、ああ…この本な…」 「気になるの?」 「まあ、な。とても大事にしてたみたいだし。」 「気になるなら、見てもいいよ。」 ラワーフィはさらりと言った。むしろワーミンが度肝を抜かれる。 「は?」 ラワーフィはもう一度繰り返した。 「見てもいい。」 「いいのか?」 「いいよ。」 「本当に?」 「いいってば。どうしてそう何度も聞くの。」 ラワーフィは特に迷惑そうな顔もせずに、いつものようにわずかに笑って、ただ単純に尋ねるだけだった。 ワーミンは尚も信じられない気持ちで、疑いを抱いたままラワーフィの問いに答えた。 「いやだって…。大切なもんなんだろ。それをおいそれと俺みたいな他人に見せてもいいのか。」 それもこれもワーミンの、他人に対して疑り深い性格故だった。彼はすぐには人を信じない。だから人がすぐには彼を信じなくて当然で、いやむしろ信じるべきでないとすら思っているのだった。 「別にいいわよ。それに、だってあなたはこれを、…私の大切なものを、取り返して帰って来てくれたじゃない。」 「だ、だけどよ。」 だから、ワーミンはラワーフィがこうも自分を信じる状況を目の当たりにして、手も足も出なくなっている。碧い瞳は真っ直ぐできれいで強い。 特に何の信念も持ち合わせていない、ただ疑心ばかりに捕らわれているワーミンが、その目に敵うはずがなかった。 「(そんなに俺のこと信用すんなよ、無邪気に。)」 「(俺は『ワーミン』だぞ。何も知らないで。)」 「(最初だって、俺はおまえのこと襲おうとしたんだぞ。)」 「なら、別に見なくてもいいよ。」 そこでラワーフィはこんなことを言った。一聞すると突然態度を翻した、実際には一貫してワーミンの意志を尊重しているラワーフィの発言に、ワーミンは面食らって戸惑ってしまった。 「ワーミンの自由。」 ラワーフィはそれだけ言う。それが最期だったらしい。進むも戻るもしないワーミンを見ても彼女は何も言わない。 そして今度こそころりと態度を翻して言うのだった。 「ワーミン、って。」 「…あ?」 「良い名前ね。」 笑顔でそう言われ、ワーミンは返す言葉が見つからずに黙った。 名前を褒められたことは初めて、ではないはずである。そこに込められた深い意味や由来を聞いた人間は、お決まりの台詞で賛辞を並べ立てたものだった。 「私は好きよ、ワーミン。」 「俺は好きじゃねえ。」 それだけはワーミンにも即答することができた。 答えを聞いたラワーフィは目を細めて小さく答える。 「そう。残念。でも、私が好きなものを、あなたも好きとは限らないものね。こればかりはしょうがないわ。」 そして笑って言うのだった。 「ね、ワーミン。」 そこから始まるたわいのない会話。その中で何度も何度もラワーフィはワーミンの名前を呼び、呼ばれるたびに、ワーミンの心は今まで不要として捨ててきたものを拾わされて腐敗していった。 「ワーミンったら。」 少女の声が鈴を転がすように響き、ワーミンの心に子供を刺して殺した思い出が蘇る。 「ワーミンも、」 碧い瞳が無邪気にワーミンを見上げ、彼の心に老婆を騙して殺した思い出が蘇る。 「ワーミンだって、」 誰かがその名前を呼ぶときはいつだって、恨みや妬み、蔑みが込められていた。ワーミンには断言することができる。 それなのに今は違う。これもワーミンには断言することができる。 かといって愛だの愛だのが込められているわけでもない。何もないのだ、そこには。ただ目の前の少女が目の前の男を呼ぶときに名前として用いるだけで、ラワーフィは今日も聖女のように笑っている。 口調が少々くだけようと、見せる笑顔が子供じみたものになろうと、神聖さはやはり変化せずに、普遍性を抱いてそこにあるのだった。 その神聖さ、過ぎたまでの白さを前にして、ワーミンは為す術なく立ち尽くす。 そのうち会話も終わりを迎えて、ラワーフィは聖女がいつもする日課をこなすためにそそくさと立ち去った。 「(……本、か。)」 見たいわけでも、見たくないわけでもない。興味がないのかと問われれば首を振る。しかし金や時間をかけ見るに値する程の興味が胸に眠っているかどうかとくれば、やはりワーミンは首を振るしかなかった。 だからこのとき、本棚の前に立っているワーミンの目の前の本棚に赤銅色の装丁の大きめの版の分厚い本が横たわっているとき、彼が手を伸ばせばちょうど届く距離にその本があったから、ワーミンは手を伸ばしてそれを手に取った。 表紙に一瞥もくれてやらずに、引き寄せたと同時に開く。したがって裏表紙は床に向けられてワーミンからは見えず、その下部に記されている年月日が現在より数百年前のものとなっていることを、彼が知ることはついぞなかった。 無造作に開かれたのは本の中程のページだった。ワーミンの視界に数枚の写真とメモ書きのようなものが飛び込んでくる。 写真はページに元から印刷されているものではなかった。古びたそれらは二枚毎ページで糊付けされていた。 『新種の発見』 『最近は気候が安定している』 『あさっては書庫整理の日』 線が細いがかすれてはいない。おそらく高価な筆記具で書いたのだろう。もうずっと昔のことになるが、ワーミンはいわゆるそういった字をたくさん見てきたので判断がいった。 しかし彼が注目すべきはそんなところではなかった。ただ彼はページの大半を占拠する主たる掲載物をあまりに注視したために、それ以外のおよそどうでもいいところを思考の淵に受け入れてしまったのである。 ページの大半を占めるもの、年月が経ったために端が劣化して干からびている写真を、ワーミンは食い入るように見つめた。 そこに映っていたのはラワーフィだった。 けれども違う。それはワーミンの知るラワーフィではない。それとは程遠い。 服が違う。写真の中の少女は先のしまったキュロットに裾の長い上着を羽織り、時には手首までしかない手袋をし、時には片眼鏡をしている。 けれども少女は確かにラワーフィなのだった。碧い目が、緩く笑う口元が、土に汚れた手が、何もかもが変わらないでそこに鎮座している。 少女はワーミンの知るラワーフィからは程遠いが、ラワーフィであるのだった。すなわち、これはラワーフィという少女のかつての姿なのである。ワーミンがそこに気付くまでにさほど時間はかからなかった。 写真に写るのは一人のみではなかった。たいてい一人か二人、少女と男性か少女と女性か男性と女性か、または無人かで写っていたが、時たま集合写真のように三人同時に写っているものもあった。だから、このアルバムの構成員は全員で三人なのだろうとワーミンは判断した。 その判断が、彼がまともにアルバムに対して下した最後の判断である。ちなみに最初の判断は、たくさんの写真が日付順にまとめられメモが添えられているこの分厚い本がアルバムであるということだ。 「(何なんだ? わけが分からねえ!)」 途中でワーミンは、少女の他にこのアルバムに写真がある男性と女性はおそらく少女の血縁の者だろうと思い当たった。というより、そうでもなければ他に考えが浮かばなかったのである。 もう少し冷静に考えれば彼は、このアルバムはとある核家族が森に移り住んで過ごした記録であろうと想像したかもしれないが、それは叶わぬこととなった。 疑念がワーミンの心を満たす。 花の装いもしていない、ただの、真の意味でのただの少女であるラワーフィが、現在は女王の広場となっているここで両親との微笑ましい記録とするに値する生活を送っていた。 ここに写っているラワーフィは女王ですらない。ただの少女である。 その一点にワーミンの思考が触れたとき、彼の心の奥底でさえも玉座に鎮座し気高く咲き誇っていた女王の姿は儚く散った。 |