遠い記憶の遙か向こうで、名前を呼ぶ声がする。 ワーミン、ワーミンと。 「もう少し寝かせてくれよ…」 呼ばれたワーミンは無意識に無造作にそう答えた。けれども声は何度も呼ぶ。ワーミン。ワーミン。 ワーミン。ワーミン。かわいらしい少女のものだった声は次第に低く転調してゆく。ワーミン。ワーミン。 ワーミン。 低いがよく透る声はそう言った。青い目がワーミンを突き刺すように見て、口がいやらしく動いて名前を呼ぶ。ワーミン。 そしてこの口はこうも言った。 「なあ、ワーミン。おまえには無理なんだよ。今はあの花みたいな女にそそのかされて善人になる夢を見てるかもしれねえが、夢は夢だ。現実にはなりえねえ。 おまえはこっち側の人間だ。それだけは忘れるなよ、ワーミン。」 何度も何度もこう言った。 ワーミンが目を覚ましたときにいたのは蔓で作られたハンモックの上だった。 彼は首を傾げた。こんなところに移動してきた覚えはない。そもそもまだ外は明るく、寝る時間でも起きる時間でもなかった。 起きようとしたときに彼はあることに気がついた。腕の動きが悪い。いいや腕だけでなく足も胴体も、まるで大怪我でもしたときのように重く借り物みたいだ。 一致しない普段の感覚と現実の差異にワーミンは驚き、違和感が軋みとなって脳を駆ける。彼は半身起こした状態で、うっと呻いて頭を押さえた。急にぶり返した頭痛が重く響いた。 そう、ぶり返したのである。彼は明確には認識していなかったが頭痛はずっと彼の頭にあった。 身体中の重みも。少し前、自身を呼ぶ声にすぐに振り返ることができなかったのも、決めるともなしに目の前の本を取ったのも、あまりの驚きの後に判断がおぼつかなくなったのも、全てのある側面はたった一つの因果の下に収束する。ワーミンは今まさに、ずっと内在していた身体の不調に気がついたのであった。 足尾が二回三回とワーミンの耳に届き、その場にラワーフィが姿を現した。 「まあ、だめよ、動いては。安静にしていて。」 「…俺はどうしたんだ。風邪か。」 「そう言ってさしさわりはないでしょうね。何らかの外的要因があなたのからだに不調を起こしたのが事実よ。」 ラワーフィは手に持った木製の盆(歪な形をしている)を近くの小さな机に乗せ、ワーミンの脇でかがみ込んだ。 「炎症は起きていないみたいね。寒気はある?」 「いいや。それよりからだがだるい。」 「そう。からだが過剰な反応をしていないのは良いことなのかしら。でも、これからそうならないとは限らない。そうでなくともさらにひどくなるかも。ううん。」 ラワーフィは口元に手を当ててぶつぶつ呟く。その様子を見てワーミンは、わずかに苛立ちのようなものを感じながら、けれどもいつものように乱暴に尋ねた。 「で、どうなんだ。」 ラワーフィはばっと顔を上げた。 「俺は寝てればいいのか。それとも医者の治療でも受ければいいのか。」 ワーミンがここで言った「医者」とは、ラワーフィのことを皮肉っているつもりだった。 彼が初めてここに迷い込んだとき、最も奥に君臨していた花の女王は、男の傷を治すと言って聞かなかった。彼の常識では計れない何か薬のようなものを使って、いともきれいに完治させたものだ。 そのつもりで、ワーミンは、この風邪も彼女が治してしまうと思うことすらせずにただ疑わなかった。 しかし彼女は、ラワーフィは、浮かない表情で小さく言ったのだった。 「…医者は、ここにはいません。」 ワーミンは素直に拍子抜けした。冗談が通じないのか、と、改めて目の前に少女に対する認識を更新した。 「……これを飲んでください。」 さらに続けてそう言われ、出されるままに出された飲み物をワーミンは口にする。甘い味がした。 しかし心がざわつく。適度に温かく甘ったるいとろりとした蜜のような飲み物を口にしても、彼の心は安らがない。 静かにだがしかし確かに揺れる心のくさはらを胸に、ワーミンは低い声でラワーフィに尋ねた。 「これで治るのか。」 「いいえ。治りません。」 「なっ…」 このときラワーフィはワーミンの予想に反して首を横に振ったが、それはある意味では予想していたことでもあった。 「原因が分からないの。」 ラワーフィは言った。 「分からないのか? あれだけたくさんの」 ワーミンが顎で示す先には壁を床から天井まで本が埋め尽くす本棚がある。 「知識があって」 「ええ。」 ラワーフィは残酷なまでにはっきりと頷いた。 「…正しく言うなら、知らない、わ。」 そして説明した。ワーミンのかかっている病はおそらく外から運ばれてきた菌によるものだろう(確かにこれにはワーミンも心当たりがあった。ラワーフィの本を取り返すために外に出たさい、けして清潔とはいえないような土地を通ったことがあった)。しかしそれはこの王国では前例のないものである、だから手の施しようがない。 「じゃあこの飲み物は何なんだ。」 「…それはただ、少しでも体力をつけさせようとするだけ。からだを温かくして、よく寝て、安静にすることが、今できる最良の治療だわ。」 このときワーミンには、確かに、これまで王座に気高く君臨してきた花の女王は、道端の花を摘んでほほえむ庶民の少女として映っていた。これは知らない、だからこれはできない。そうして限界を前にした花の女王はもはや女王などではなく、ワーミンが手を伸ばせば今にでも届くようなところに立っている。 「ラワーフィ…」 「……ごめんなさい。」 ラワーフィはわずかに下唇を噛んでいた。大きな目は伏せられて、長いまつげが碧にかかっている。 「頼りにならなくて。」 しかしラワーフィが次に目線を上げてワーミンを見たとき、出てきた声は不釣り合いな程に明るかった。 「からだのことが心配なら、そうよ、外のお医者様に見てもらったらいいわ。あなたがもらってきたその病気が、あなたの世界ではそう珍しくないものならば。すぐに確実な治療を与えてくれるでしょう。 そうするのがいいわ。そうしたらいいわ。そうするといいわ。そうすれば……」 声は尻すぼみになってついには消えた。あれほどワーミンが外へ行くことを止めたラワーフィが、あれほどワーミンが帰ったことを喜んだラワーフィが、森の外へ行けばいいと言う。それを言わせしめたのは他でもない、ワーミン自身である。 彼はそのことを承知の上で、罪悪感に苛まれてというのでもなく、率直に言えば面倒くさくなって、無造作に言葉を投げた。 「……別に。俺は医者じゃねえからな。詳しくないことも何も知らねえ。すぐに死ぬようなもんでもないんだろ、わざわざ出て行くこともねえ。」 そもそも、例え外(それも単なる外界では意味がない。病気を治療できる人と金と余裕のあるところでなければならない)へ行ったところで、そこの人間が「ワーミン」を治療してくれるものかどうか怪しかった。で、何よりもまず、ワーミンには金がない。 「俺はここにいるさ。知らなかろうが何だろうが、俺の傷を治したときみたいに、何かしらしてくれよ。」 するとラワーフィはあからさまに嬉しそうな表情になった。けれどもその上で少々ためらいながら、「でも」と口にする。 「で、でもね。違うのよ、ワーミン。人間ってあまり変わらないでしょ。だから、私にでもけがなら治せるの。そしてからだの中から起こった病気ならそれも治せるわ。 だけど、病原菌は違うでしょう。彼らは生きているの。あなたが持ち帰った菌は外の世界のもの。私の知らない世界で、私の知らないあいだに成長して進化した。だから、よ。だから、」 ワーミンは皆まで言わせなかった。 「んなことは知らねえよ。俺は学のある人間じゃねえからな。別に、どうでもいいだろうが。 菌が成長するってんなら、おまえは成長しないのか?」 ラワーフィは息を呑んで言葉を飲んだ。その反応はワーミンにとっては予想から少々外れたものだった。 「成長……。」 ラワーフィが口を開く度、ワーミンが口を挟む度、これまで丁重に積み上げられてきた積み木ががらがらと音を立てて崩れてゆく。そんな印象をワーミンは持った。 「…そうね、生きた人間だったら、成長するものね。」 そう言って笑うラワーフィはまるで額に汗すら浮かべているようである。 積み木が瓦解するのは止まらない。 ただただワーミンは面倒を感じていた。彼には、一度積み上げた積み木が崩れてしまったのを、また元に戻すような根気の良さはない(元より積み上げるだけの繊細さもないのだが)。仮にもかつてはその崩壊を止めようとしたことはあったが、それが止まらない今、自分の手には負えない今、これ以上どうしろと誰が言うのだろうか。 「…けっ。じゃあいい、勝手にしろ。お望みのとおりここでのたれ死んでやるよ。」 すっかり全てを諦め放り出したとき、ようやく事態が進展した。 「それはだめっ!」 ラワーフィが声を荒げたのだった。 「ひどいわ…そんなこと、望んでないわ。あなたが死ぬなんてそんなこと絶対にいやよ。……。」 「じゃあどうすんだよ。治せねえんだろ。」 「だから、それは、……」 ラワーフィは一度は言おうとした言葉を飲み込んだ。重たげに首を左右に振って、絞り出すように言う。 「……あなたに、死んでほしくないわ…。私の大切なものを取り返してくれたあなたに、私の大切なあなたに。」 だから何だと言うのである。ワーミンはそれを言ってラワーフィを追いつめることはせずに、黙って言葉の続きを待った。 ラワーフィは両拳を身体の横で握りしめていた。 「…が、がんばる、から。病気、治せるように、がんばるから。あなたには死んでほしくないし、ここにいてほしい。」 ラワーフィは必死だった。元より自身が「ただの風邪」と言ってのけたこの症状を、ワーミンが死ぬだとか適当に言ったがために重く捉えて重い言葉を引き出している。 「(あーあ。本気にしちまいやがって。ばかじゃねえの。)」 ぼんやりとワーミンはそんなことを思った。その他にもしばらく様々なことを考えてから掃いて捨てるように言った。 「そうしてくれ。」 ラワーフィは何やら納得したようだったがワーミンには関係がなかった。柔らかいハンモックに勢いをつけて身体を倒し、向きを変えてラワーフィに背中を向ける。 まるで自分がラワーフィに説教したみたいだった。ワーミンは感じる。いつもはその逆であるというに。 「ワーミン…」 「…………。」 「私、がんばるからね…。」 |