あれ以来実際にラワーフィは「がんばって」いた。
 貴い人間というのは得てして頑張らないものである。ワーミンは自分がかつてはそうであったし、そう思っていた。
 彼のような偶然そこに生まれついただけの貴族でもそうなのだから、それが王族の人間(例え勝手にそう名乗っているだけなのだとしても、だ)ならば尚更だ。普段は玉座に君臨して偉そうに正しいことを並べるだけで、自身が汗水垂らして地べたを這いずり回るなんてのは以ての外だ。
 しかしそれは汗水を実際に流さないということではない。彼らは例えば政治が上手くいかなかったときや、スポーツをして疲れた後などには汗を流す。寒ければ鼻水だって垂らすだろう。
 ただ、出来ないことがどこかにあったとき、それを出来ないままではいさせないということを、…引いては文字通り地べたを這いずり回ってでも出来ないことの前に打ちのめされるということを、彼らは全くしないのである。
 だからワーミンは、頑張っているラワーフィを目の当たりにして、まるで狐に摘まれた気分だった。そのとき本棚から本の雪崩が起こった。
「いたあ……」
 ぶつけたらしい鼻の頭をさすりながら、ラワーフィは散らばった本を広い集める。そもそもたいていの本が大きい版だったり分厚かったりしたから、それは相当の重労働であった。
 ラワーフィは本棚の高いところ、普段あまり出し入れされない、ぎゅうぎゅうに詰め込まれたところにある本を取ろうとして、周囲の本をも巻き込んで落としてしまったのだった。
 落ちた本を拾うあるとき、ラワーフィは開いて落ちている一冊を見つけた。そのページに描かれた図を見つけて、突然興味を引かれたかのように見入る。
 無言のまま時間が過ぎた。その様子をハンモックに座るワーミンは黙って見ていた。
「…ラワーフィ。」
「…………。」
「ラワーフィ。」
「…………。」
「ラワーフィ!」
「ん、なあに?」
 そこでやっと初めて声に気付いたラワーフィは、少しだけ嬉しそうに笑って顔を上げた。ワーミンが力を込めて振り上げようとした手は降ろされる。


「…いや、何でもないんだ。」
「なに、変なの。あ、もしかしてまた、私が何者か、っていう質問?」
「いや…」
 違うんだとワーミンは言いそうになったが、あながちそうでもなかったので言葉をしまった。
「そうね、ワーミンになら、話してもいいかもね。あなたあの本見たでしょう?」
「ああ…。」
「いいわ、話す。あなたに聞かせるわ、私のこと。だから、」
 ラワーフィの碧い瞳がワーミンを見た。
「聞いてね、私のこと。」
「ああ……」
 ラワーフィはにっこりと微笑んだ。今までに見たことのない、あからさまな笑顔だった。
 ワーミンは別にそれに落胆もせず驚きもせず、ただ動作の鈍い頭でぼんやりと考えるのみ。
 ラワーフィが話すと言っている。これまでずっと隠そうともしなかった、すなわち隠していることすら隠してきた、自分自身のことについて。
 しかしこうなった今、ワーミンは、そのことについてかつて抱いたかもしれなかった程の期待を抱きはしなかった。
 さてはもうここには、「女王の過去」には、彼が惹かれただけの神秘的な秘密などないのではないかと思ったのである。
「でも、今はまず病気を治すことを考えなくちゃ。安静にしてるのよ。
 特効薬はないけれど、きっとすぐによくなるからね。」
 かつての女王は肉親を気遣う平民の少女のように、力強くも出しゃばらない美しい笑みを咲かせるのだった。


 しかしてそのときはすぐにやってきた。結局のところ風邪は風邪ただの風邪であったので、ラワーフィの言うとおりからだを温め適度に寝て休んでいたら、体調はただただ良い方向に向かうばかりだったのだ。
 からだの重みが軽みに代わり、けだるさが喉の痛みに取って代わられ、ついには鼻水すらも消えていなくなった朝、ラワーフィは満面の笑みを浮かべてこう言った。
「全快、おめでとうございます!」
 それは一言で表すならやりきった笑顔だった。満足感に満ち溢れていた。宣言どおり「がんばって」、そして最善の結果が得られたのだから当然なのだろう。ただしそれは「平民として」はだ。
「あ、ああ…」
 ワーミンは頷いたのだか首を傾げたのだかよく分からない動作と共におざなりに声を出した。それによりその場はつつがなく進行した。
「朝ご飯にしましょう。」
 少女は嬉しそうに両手を合わせ、ぱたぱたと厨房へ駆けていく。ワーミンはもう身体は快調であったから彼女の準備するのを手伝って、その様子はさながら一般家庭の親子か兄妹か、はたまた幸せな恋人同士のようであった。
 準備が完了したら2人でテーブルで食事を済ませ、片付けもワーミンが手伝おうとするとそれは少女に止められて、彼は厨房でがたがたやる音を聞き流しながら座ってぼんやりとする。
 ワーミンは胸で何かざわつくのを感じていた。それは数日前から彼の中に生まれ、ここのところずっと肥大し続けている何かであった。
 ワーミンが胸中で舌打ちした少し後だった。ワーミンの目の前に一冊の本が差し出された。赤銅色の装丁の、大きめの版の分厚い本だ。件のものであることは明白である。
「ここに、一冊の本があります。」
 本はテーブルに置かれ、ワーミンの隣にラワーフィは腰掛ける。彼女はわざわざ椅子を移動させていた。
 何だか芝居がかった話しぶりに、思わずワーミンはラワーフィを、狐に摘まれたような気持ちで見てしまった。すると彼女はどこか照れたように、しかし楽しそうにはにかんで(そしてこれも、まるで年頃の少女がするように)笑うのだった。
「何だと思う?」
「……アルバム。」
「そう。これはアルバム。私のよ。」
「他に写っているのは…」
「私の父と母。」
「…………。」
「これは、私が父と母と共にこの森で暮らしていたときの記憶。すると当然、あなたの頭に浮かんで然るべき疑問があるわよね。どうぞ。」
 ワーミンは、完全にラワーフィに促されて言った。
「…こいつらは、今はどうしてる。」
「死んだわ。」
 ラワーフィは実にあっけなく言った。それはあまりにささやか過ぎて、ワーミンには一瞬、彼女がどうしてそんなことを言うのか理解できなかったほどだ。今までに数え切れないほどの人間を殺しできたワーミンにさえも。
 ラワーフィは語る。
「私がいまより少し幼かった時分にね。そして私は一人になったの。」
 ワーミンは今度は促される前に自ら尋ねた。それはまず会話の主導権を少女に握られるということが許せなかったからだが、それよりもとにかく、彼は自分の胸に浮かんで満ちた疑問を、すぐに追求せずにはいられなかったのだった。
 そんなことをしても主導権など戻らないのではあるが。
「だけど、おかしいじゃねぇか。このときのおまえは、ふつうの人間のするみたいな格好で、ふつうの人間の生活をしている。それがどうして今?」
「…きっと、森にはそれが必要だったの。女王として王国を統べる存在、」
 ここで少しの間が挟まれた。ワーミンではなくアルバムを見つめるラワーフィが言葉の続きを引き出す。
「の代役が。」
「……代役、だって?」
 そしてラワーフィはワーミンを見た。肩の少し上で揃えられた髪が揺れる。碧の瞳がまっすぐに、恐ろしいくらいに真っ直ぐにワーミンを見つめて語りかけてくる。
「おかしいと思わなかった? 花の女王、花の王国、って言っているのに、どうして人間である私が女王をしているのか。」
「それは…」
 少し頭のねじが外れているのだと、ワーミンは思っていた。ただもう少し説明するのなら、そこまでの厳密さなどワーミンは持ち合わせていなかったのだし、何となく日々を送るうちにそんな根本的な疑問など浮かぶ前に消えた。
「私は人間よ、正真正銘の。それで、私は、ただの女王の代役。」
 とてもとても重要であるかのようにラワーフィが話すのも、今のワーミンにはどこか滑稽にさえ聞こえる。
「本当の女王は別にいるわ。女王をあなたに紹介します。」
 けれども、話す彼女の瞳はどこまでも真っ直ぐで真剣で、きれいなのだった。


「ここは…」
 小部屋だった。この狭い家で暮らしていたというのに、まるで幻のようにワーミンにその存在を認識されなかった部屋。盗賊達がやって来たとき初めてそこにあると気付かれた部屋。ラワーフィがそれを盗られてあれだけ取り乱すことのできるアルバムがあった部屋。
 そこにワーミンは招かれていた。部屋があると知ってからも特に用事はなかったのでそこに入ったことはなかったが、今こうして初めて足を踏み入れている。ただ、だからといって何も物珍しいものがあるわけでもない。この家の他の部屋と対して変わらない内装の中に、クローゼットが一つと本棚が一つと小さな机が一つあるだけだ。
 ラワーフィはその小さな机に歩み寄り、半身をワーミンに向ける。手で机の上を指し示して言った。
「はい。これが女王。」
 ただの鉢植えの花だった。
「…………。」
 もはや相づちさえも浮かばずに、ワーミンは黙りこくる。驚く余地もないくらいには、あまりにもその鉢植えとそこで咲く一輪の赤い花が何の特徴も持っていないのだった。少し自然のあるところに行けばすぐに見つかりそうなものである。
「陳腐だと思う? でもこれが真実よ。花の王国を統べるのは、当然、花でなければならない。人の王国を獣が務めていたらお笑い草だものね。そして、国の統治者だからって、華やかできらびやかであるとは限らない。それは人の勝手な偏見でしょう?」
 そして少女の語る理論は確かに間違ってはいない。間違ってはいない。ワーミンは確かにそう思うのである。ただしその感覚には決定的に不足している部分があった。
「…やっと、本物の花の女王を紹介できたから。改めまして。」
 ワーミンの心情などよそに、それまでずっといわば無表情に話を進めていたラワーフィが笑った。それはワーミンにも見覚えのある笑い方であった。目が細められ、口の端がわずかに上がる。そこに浮かぶのはただひとつ。慈愛である。
 少女はしゃんと背筋を伸ばし、両手を身体の前で組む。そして彼女が口を開いて言葉を発した瞬間、ワーミンの中を閃光のようにひらめきが通過した。
「花の王国へようこそ!」
 その笑みは、ワーミンにも見覚えのあるものであった。森で共に暮らす中で、何度も何度も何度も目にしている。そしてその中で一番記憶に古いのは、すなわちそれを初めて見たときは、彼がこの森、この広場に足を踏み入れて、倒れた大木の家から花の格好した少女が彼を迎えたときだ。
 ここでワーミンは静かに、このラワーフィという少女が真剣に頭のおかしい少女だと悟った。
 根拠は至る所に転がっていた。そもそも最初に出会ったとき、料理を出されたとき、洗濯物を畳んでいたとき、何か特定の行動をラワーフィがしているときもそうであったし、そもそもこの森、この広場、この環境は、まるで年端もいかぬ少女のための遊び場のようだとの印象を最初からワーミンは持っていた。そして彼女が口を開いて何かを言うたび、ワーミンは、「正常」という世界からかいりしていくのを感じていた。
 必要だったのはきっかけだ。ワーミンがその漫然とした印象を理解の次元に上げるには、この世界はあまりに閉鎖的過ぎた。外の世界から全てが遮断されたこの場所では、ワーミンにできることはただこの少女に洗脳されて共に笑うことだけだった。
 今、ワーミンが一度外の世界へ戻り帰った今、ワーミンはその頭でしっかりと理解していた。ラワーフィは、この女は、おかしい。
 あまりにその推論がきれいで筋の通ったものであったために、少し前から幾度も幾度もこの女の突拍子もない理論を聞かされていたワーミンには、それはあまりに理路整然としたものと映った。あまり学のない彼にも見事に納得ができた。
 この女は少し前にこの森に移り住んだ一家の娘だ。大方この森の特異な植物の研究でもしていたのだろう。それが、森で起きた不慮の事故で両親共に死んでしまった。こんな薄暗い森に子供が一人、発狂しないほうがどうかしている。
 そして作り上げたのが「花の女王」という職業だ。迷いの森の最深部に人知れず存在するのは「花の王国」。自分はそこを統べる女王。ここは両親を失って寂しい少女が、頭を狂わせた末に作り上げた遊び場だ。
 だから彼女の話す理論はワーミンにはわけが分からなくて、だから彼女の世界はワーミンの目にはこんなにも美しい。それもそのはずである、ここは彼女が彼女のためだけに作り上げた彼女の世界なのだから。嫌いなものを全て閉め出せば、後には何も残らない。だから残酷なまでに美しいのだ。
 ワーミンはきれいなものが嫌いだ。だから汚す。ワーミンは自分の手では汚され得ないものが嫌いだ。だから遠ざける。
 だが、しかし、このお花の王国はどうだ。ワーミンはここは自分の手など及ぶ領域でないと感じるともなく感じていたが、一つ皮をめくれば何てことはない、あるのは閉鎖的な空間と、頭の狂った少女だけ。かつては玉座に君臨して誰しもをひざまづかせる絶対性を持つと思われた女王はどこにもいなかった。そんなものに自分が取り込まれるわけがない、浄化されるわけがない。
 でなければ、今の自分のこの心がこんなにも泡だってたまるものか、とワーミンは思う。数多くの汚いものを、元はきれいだったものを汚してまでも滅茶苦茶に放り込んで放置して、腐るところまで腐ったこの心が。それは今や、熱い炎にくべられて、煮えたぎって波打っている。
「(ああ、分かっている。分かっているさ。俺は何にも変わっちゃいねぇ。変わらされるはずがねぇ。)」
 ワーミンは「女王」の紹介を実に楽しそうに続けるラワーフィを前にして、腰に帯びた短剣に触れた。それはそう、何ということはない、ただの人を殺めるための刃物だ。


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