声が聞こえた気がした。

 そんなもの気のせいだろうと思って振り切る。男は、以前(もうずいぶんと昔に感じられる)とは打って変わってよく動く足と身体に意識を集中した。
 木の向こうに木が見えて、それを何度か繰り返した後の向こうの闇からまた木が姿を表す。適宜方向を変え、男は木を闇をかき分けて進む。
 ただ前へ前へと行くことのみを考えていた(そうでもしなければこの森を出ることはできないと思っていた)彼の集中は、あるときふいに細くなった。それは特にきっかけを要するものでもなく、単に人間の有限の処理能力の限りが偶然このときにやってきたというだけである。
 もちろんすぐに彼は意識を目の前の世界とこれから目指すべきそれに戻そうとするが、その行動こそが集中が途切れたということの証明に外ならない。かくしてその声は男の意識の表層に浮かび上がった。
「う……っ」
 思わず呻いて立ち止まる。それはならないという警告も、声、あまりに悲痛な泣き声の前には無力だった。
 それは泣き声だった。誰の、は、確かめるまでもない。確証がないのだから。むしろ、他に有り得る原因がないのだから。
 少女のおよそ叫び声ともとれる泣き声は、あるときからずっと男の耳に、脳について離れなかった。男はそれを気のせいだとして否定した。しきれなかった。
 けれども否定する他に彼にとれる手段はない。こんな声の意味や理由を考えるということは、迷いの森を出ようとする者の足を止めるということだ。
 だけれども男にはもう限界がきていた。暗い森の中では時間の流れが分からないから、いったい何度日が上って沈んだのかが分からない。しかし学のない彼にでも、距離があれば人の声など聞こえなくなることくらいは分かっていた。確かに彼女の声は直に男の耳に届いていないときもあったが、ある程度歩いて時間が経った頃、思い出したようにその声は現実味をもって男の鼓膜を震わすのだ。声が直に耳に届いている。すなわち。
 男は自らの進むべき道を見失っていたのだった。ひたすら歩く中で、あの例の広場が視界に入りかけたときさえもあった。当然、弾かれたように向きを変えた。それでも、それなのに、声は男の心から離れないし、耳に届くときさえもあるのだ。
 飲まず食わずで歩き詰めて、あの頭痛を催すような声を耳で脳で四六時中聞き続けて、半ば精神に異常をきたしながら、あるときついに男は膝をついた。しばらくじっと地面だけを見つめて息をする。そして視界に映る地面がささやかな若芽をたくわえていることをついに認識したとき、彼の心は絶望に満たされた。
 顔を上げる。こうなると、かえって笑いさえもが彼の顔に浮かぶ。目の前に広がるのは、開けた空間と、大木と、きれいな空気と、残酷なまでにあのときと何ら変わらない箱庭だ。そして実に皮肉なことに、男の反応もあのときと何一つ変わらない。彼はただ、我知らず、きれいな場に見とれるのだった。
 もちろんそんなことには気付かない男は、ここであることに気が付く。
 声が止まっていた。

 階段を何歩かで上がって、扉を引いて開ける。木の軋む音が無音の世界にいやに長く呆気なく響いた。
 目的の人物はすぐに見つかった。なぜなら彼女は男がここを離れたときとほぼ変わらない位置に膝を抱えてうずくまっていたからだ。全く変わらない姿で。
 すなわち身に何も纏っていない少女は、膝を抱えてそこに顔を埋めて、音のない世界にただ存在していた。まるで廃墟に咲く花である。違和感はあるが不思議と気にならない。男はむしろその違和感にこそ親和性を抱いていたのだ。
 異常な精神から持ち直しつつあった彼は、そんな自分については認識したので少しだけ不愉快になった。このかつての女王の広場での暮らしが自分自身に影響を与えているということ、それが彼にとって何よりも否定したい事実だったのだ。
 男は忌々しく思って舌打ちした。そして歩いて少女の前を通り過ぎて、まず最初は水瓶の水を掬う。喉を存分に潤した後は特に迷うことなく棚を漁り、すぐにその場で食べることのできる干物だとかを口にした。
 もちろんそれだけで満腹になることはない。ただの繋ぎだ。男は水槽で冷やしてある果物の存在に気付き、今度はそちらに手を出した。この家の勝手はよく知っていたから、そのようにして彼は次々と食料を食べていった。
 しまいには腹も膨れたので腰を下ろす。次は肉体の疲労を解消しようと思ったからだった。寝床に落ち着くのはさすがに気に食わなかったので、男は木製の床に座り壁を背にして目を閉じた。それでもただひたすら歩き続けていたときよりはよほどましである。
 そしてあるとき男は、少女の様子をちらりと伺った。男から向かって左斜め前の床、例の小部屋へ続く扉の付近で扉を背にして、膝を抱えて顔を埋めて微動だにせず座っていた。声一つ上げない。男がここへ戻ってきたときにもまるで意に介していないようであった。
 ただ黙ってそこに存在する少女のその姿を認めたとき、男はまるで廃墟に咲く花のようだという印象を抱いたが、それはあながち間違ってもいないと思うのだが、ここで一つ加わるものがあった。咲いている、それに変わりはないのだが。しんと静まりかえる空気はまるで、その花が枯れてしまっているようでもあったのだ。
 そこまで考えが至ったところで、男は少女の隣に転がる冠に意識がいった。それは「花の女王」がいつも頭に身につけていた、花を模したものだ。それに何だか力がない。
「……………。」
 ひとたび意識してしまえばもう取り返しがつかなかった。男は率直に言ってしまえば女王の花の冠が気になって気になっていたのだが、そんなことはないと証明するために(これはほとんど無意識的な動機付けである)立ち上がって女王に近寄った。
 上から見下ろすと正に花である冠は正に枯れている、ように見えた。男は女王のすぐ前で腰を下ろす。彼女は膝を抱えて顔を埋めていたから碧の瞳を見ることはできなかった。
「おい、女王。」
「…………。」
 返事はない。
「そんなところで何うずくまってんだよ。いつまでそうしてるつもりだ。」
「…………。」
「服も着ないで。生きてはいるんだろうが、おい。」
「…………。」
「返事もできなくなったのかよ。」
 おもしろくなかったので男は舌打ちした。綺麗だから汚すのが楽しいように、泣き喚くから踏みにじるのが同じく楽しいのだ。それがこう物も言わぬ人形のように成り果ててしまったのでは、おもしろみがまるでない。
「(…くだらねぇ。)」
 自分がしでかしたことが。目の前の少女がどうであるということが。
 矮小なことにこだわって心惑わせる自分自身が。それが一番くだらなかった。
 くだらないから何も残らない。過去は捨てたし元より男には未来なんてすばらしいものはなかったから、今しかない。今はすぐに過ぎ去るから何もない。何も。
 ただここに、男と少女がいて、少女がいるから男は自分のしでかしたことを自覚させられるだけ。しかし少女は何も言わない。
「おい、何とか言えよ。」
 ワーミンは黄色の頭を髪の毛で掴んで持ち上げた。容赦はなかった。のだが、抵抗されたことにほんの少しだけ驚きながらも力の差は歴然としていたからいとも簡単に顔を自分に向けさせたときに、その顔を見て、ワーミンはぎょっとして半歩後ずさってしまったのだった。
 自然に手の力も抜けたから、ラワーフィはすぐにまた抱えた膝に顔を埋めた。けれども瞬間でも目に映ったものがワーミンの心に焼き付いて離れない。
 酷い顔だった。
 ワーミンを驚かしたのは、あのとき殴りつけたためにできただろう青痣ではなく、泣きはらした真っ赤な目だった。
 やはりあの泣き声はラワーフィのものだったのだ。ワーミンはそれまで確証はないが確信はあったから認めないようにしていたが、ここにきて現実を直視せざるを得なくなる。
 ラワーフィは泣いていた。自分が泣かせた。自分が彼女を陵辱して泣かせた。
 思考は止める間もなく進んで、泣き声が止まったのは、涙も声も使い果たしたからだろうとワーミンはすぐに察した。嗚咽すらあげることもできずに、それでも泣くことがやめられないからラワーフィは今も尚泣いているのだ。心で。
 けれどもその理由が分からない。原因なら分かる。自分だ。ラワーフィが何を感じ、何を思い、何を望んで泣くのかが、ワーミンには分からないのだった。
「な、なあ。泣くなよ、ラワーフィ。」
 ワーミンは言葉を知らなかった。このようなときに、このような気持ちのときに、何をどう言葉にすればよいのかがまるで分からなかった。
 泣き喚くから踏みにじるのが楽しいのだ、そうだ。ワーミンは自分自身の感性をどこか他人事のようにそのとき感じた。ああ、楽しかった。ワーミンは思った。確かに楽しかった。だが、今はどうだ、そんな楽しいだとか嬉しいだとかの気持ちからは程遠いところにいる。少なくとも、踏みにじってしまった今、その相手が涙も声も使い果たして枯れているのを見て、理由の分からない気持ちを前に何もできずにいるだけだ。
「水くらい飲めよ。でないと死んじまうぞ。」
 かける言葉には意味がない。少なくともかけた相手に何も届かない。
 それもそのはずで当然である、しばらく前までワーミンには、何を話すかということよりも、いつ話すかどう話すかということのほうが大切で、熟考して口を開いたことなどなかったのだから。
 けれども過去も未来も捨てた彼には今しかない。どのようにするかなんて目の前の頭のおかしい少女には通用しない。ただわけの分からない気持ちで心を一色に満たして、唸って、ためらって、そしてようやく口にした。
「……ごめん…」
 それはあまりにささやかなものだったから、それを発した本人すらにも実感を抱かせなかった。小さな声は空気を震わせて音になり、無音の世界に染み入って消える。
 けれども気持ちは消えなかった。ただ無意識のうちに発した三文字の言葉がワーミンの心にすとんと落ちる。だから彼は無意識にもう一度繰り返した、今度は自らの意志で。
「ごめんな、ラワーフィ…」
 黄色い頭が顔を上げた。泣き腫らした目元に疲れ切った表情、見開かれた真っ赤な碧の目がワーミンを見つめた。ワーミンはもう一度繰り返した。ごめん、と。
 ラワーフィの表情が歪む。けれども枯れてしまった涙はもう出ない。ワーミンは蹂躙するためではなく、ただ引き寄せるために彼女に手を伸ばした。抵抗はされなかった。
「…ごめんな……」
 ワーミンはラワーフィを抱きしめた。ラワーフィは泣いていた。声も枯れていたからその口を使ってどんな素晴らしい御託を並べてくれるでもなかったが、今までのどんな時間よりも、ワーミンには彼女の言いたいことの理解がよくできた。
「ラワーフィ…ごめん、ごめんな……」
 そしてわけの分からない気持ちの正体がやっと分かった。ワーミンは酷いことをしたと思っていた。ラワーフィを泣かせたくはなかった。自分が許せなかった。自分が許されたかった。


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