「復讐、ねぇ…」
 ワーミンは狩りをするために森へ出ていた。装備は猟銃と短剣、およそ「花の女王」が忌み嫌いそうなセットである。
 驚いたことにラワーフィの家には猟銃があった。かつて一家で暮らしていたときにはそれで獣を獲って食べていたらしい。しかしそれはあまりに「花の王国」には相応しくないものであったために、花の女王によって封印されたのである。そのようにして彼女の世界に邪魔なものを押し込められてできたのがあの小部屋だった。
 タンパクを摂取するにはいつもしている食事で事足りる。生きていくには問題がない。だがそれは所詮それだけなので、ワーミンは猟銃を手に森に出て、獣の一匹や二匹や三匹は捕まえてこようと思った次第である。家では今頃鍋の下拵えをしたラワーフィが待っている。
 こうして女王が嫌いな凶器の封印を解いたのも、ちょっとした心境の変化によるものだろう。
「(俺にはどうも、そうとも思えないんだが。)」
 復讐について、である。話を聞いた当時は納得した。ラワーフィの今に至ったいきさつと思いに、だ。
 けれども現実はどうだ。ワーミンはそもそも花の王国なんてものは最初から信じていなかったわけだが、わけだから、「森の復讐」だなんて言われても、それ自体にはどうにも納得ができなかったのである。あれから一晩経ってワーミンはそこに落ち着いた。
 そしてさらに、今、こうして森へ出てきて。また少し違った方向から、森の復讐などというものが信じられなくなっていた。
 森がきれいなのである。
 確かにここは、誰しもから恐れ疎まれる「迷いの森」である。広大な範囲に鬱蒼と茂る樹木の数々。ここでは方位磁針も頼りにならないし、梢はきれいに空を覆い隠している。足を踏み入れた者は時間も方向も分からずにさまよう外ない。
 けれどもそんなもの、移ろい続ける人の感性に過ぎない。何人たりとも近付かせない絶対性、強い力は、あるときには見る者を魅了すらする。
 そして何よりも、そんな森の奥にあるからこそ、あの広場はワーミンの目には神聖で美しく映るのだった。今でこそ心から認めるが、彼は初めて来たときも、初めて帰って来たときも、不本意にも戻って来たときも、あの広場に改めて入るときには必ずあの美しさに心を奪われていたものだ。周囲を背の高い樹木に囲われて、梢に切り取られた空が覗く、中心に荘厳ながらもかわいらしいラワーフィの家を守る、彼女だけの空間だ。
 城壁が無機質なのも、そこで戦う兵士が冷酷なのも当然で、それこそが望ましいあり方である。中心に最も大切なものを守るのだから。
 そう、だから、仮に本当に森がラワーフィを閉じこめて生かしているとしても。これは、復讐などではなく。
「……クソッ、待てッ!」
 引き金を引く直前に走り出した獣を、ワーミンは慌てて追いかける。今日の夕飯はあれに決まりだ。


「お肉を食べるなんて久しぶりだわ。本当にありがとう、ワーミン。」
「別に…」
 捕獲した獲物はラワーフィがきれいに調理してくれた。実に器用なものだった。そして何よりも美味だ。
「共同作業だろ。俺が獲って、おまえが裁く。こっちだってうまいもん食えるんだ、あれくらい手間じゃねぇよ。」
「…味付けが口に合うならうれしいわ。腕が鈍っていなくてよかった。」
「おかわり。」
「はい。」

 食事を終えて、ラワーフィが片づけている音を片耳に入れながら、ワーミンは席についたままぼんやりとする。最近はこういった何もしない時間に考えごとをすることが増えた。
 ある方角の壁一面を占める本棚とそこに詰め込まれた本の数々を見て、随分と勤勉な娘、親子だったのだろうなと思いを馳せる。学者一家か何かだったのだろうか。それならこの家のあちこちにある不思議な植物にも合点がいく。
 そうして考えていたあるとき、また別の壁を埋め尽くす、物を置くことのできる出っ張りをさらに埋め尽くす植木鉢が目に入った。初めてここを訪れたときにはその異様さに驚いたものだったが、今となってはそれが当たり前の存在になっていたので、普段は背景としてしか認識していなかった。それが今更気にかかる。不思議なものである。
 左端のほうから順に眺めていく。今では随分と慣れ親しんでしまったものだが、本来それらはワーミンが外の世界では見たことも聞いたこともないような植物達であった。
「!」
 突然、ワーミンの目はある植物に釘付けになった。特別おかしな点があったというわけではない。ではなぜか。人がものを意識して見るときには主に二つの場合が考えられる。一つはそれを見ることに意味を見出したとき。もう一つはそれがこちらを見ていたときだ。すなわちワーミンは、ある植物と「目が合った」気がした。
 もちろん植物に人間で言うところの目がついているはずもないからそんなわけはないのだが。それでもなぜかワーミンはその植物に意図のようなものがあるのを感じて、そしてすぐに思い当たった。あれは、あのワーミンを見ている植物は、かつて彼を攻撃した植物である。
 長い蔓と極端に大きな花の部分を持った、それがまるで人間の手と頭のようである植物。ワーミンが初めてここに来て初めてラワーフィを襲おうとしたとき、それを妨害してきた植物。
 ワーミンは思わず席から立った。そして植木鉢が所狭しと並ぶ一角に近付き、至近距離で真正面からその植物と見つめ合う。
 だがそいつは何も言わなかった。当然である。植物なのだから。人で言うところの口はないし、そもそも言葉などという概念があるのかすらも怪しい。だから、つまり、そいつがワーミンのことを見つめているなどと、彼のとんだ錯覚に過ぎないのだ。
 けれども確かにあのときこいつは、ワーミンを攻撃した。それも女王であるラワーフィを守るかの如く、だ。
 しかしそれにしても、彼らがまるで意志を持っているかのように動いたのはその一件のみで、それ以来ずっと彼らは沈黙を守っていた。あの侵入者二人が現れたときでさえも、だ。だからこそワーミンは彼らの存在を忘れきっていた。
「うーん…」
 だから、森が少女に復讐したなどと、それもラワーフィの錯覚、思い込み、願望に過ぎないのだと、ワーミンは思っていた。
 だが、ワーミンは今でも覚えている、今思い出した。こいつがワーミンを攻撃したときのあの感触、あの痛み、あの恐怖を。涎のように滴った蜜の味ですらも。これが錯覚だったとでも言うのだろうか。
 人間の概念を植物に当てはめるなどという荒唐無稽なことをするつもりはもちろんないが、それでも実際に起こったことまではワーミンには否定できない。こいつはワーミンを攻撃した。そしてワーミンはそのとき女王を襲おうとしていた。
「(じゃあ何であいつらが来たときには動かなかったんだ? …女王本人に危害を加えようとしていたわけじゃないから、か? ああ、それに、あのときは女王は一人じゃなかったもんな。とか考えると、ずいぶんとそれっぽいことになっちまうじゃねぇか…)」
 それにそして、その直後、ワーミンが森を出てまた戻ってきたとき。あのときは随分と森はワーミンに親切だった。すぐに外へ出ることができたし、迷うことなく広場まで帰ることができた。あのときの森は迷いの森なんかではなく、まるで女王の宝を取り返しに行く者の後押しをしていたようだった。
「(いやいやいや、そんなはずあるか! “森”だぞ。“植物”だぞ。だけど、でも、なあ。あまりにも理屈がついちまうよなあ。人間の理屈だが。)」
 ワーミンは思わず頭を抱えた。そんなことをしているうちに、片付けを終えたラワーフィが戻ってきた。
「何やってるの、ワーミン。」
「ああ…」
 不思議そうな顔して、楽しそうな顔して、ラワーフィはくすくすと笑う。ワーミンはああだかおおだかよく分からない声を発してから、改まって彼女に尋ねた。
「…なあ。こいつは、この植物は、意志でも持ってるのか? 人間みたいに。」
「…………。」
 きょとん、と、ラワーフィはした。それからおもしろそうに笑って答えた。
「それは私には、分からないわ。だって私は人間だもの。」
 それはあまりに価値のない答えだったが、ワーミンが心のどこかで最も欲していたものでもあった。
「そうだな…」
 ワーミンは呟く。そして件の植物を見る。
「何だったら、本人に尋ねてみたら? あなたの望む答えが返るかは分からないけれど。きっと得るものがあると思うわ。」
 そう言い置いてから、ラワーフィはぱたぱたと駆けて出て行った。洗濯物を取り込む時間だったからだ。
 その場に残されたワーミンは、その植物を見つめたまま。ふと口を開いた。少しためらった後に声に出す。
「……おまえは、」
「ラワーフィが好きか?」
 もちろん言葉は返らない。
 ただ、ワーミンがこいつを見ているように、そいつもワーミンを見ているようで、それがまるで笑ったような気がしたから。
 ワーミンもにっと笑った。やっぱり何も分からなかった。だってこいつは人じゃないんだから、な。


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