寒い。冷たい。
 丘の間を吹きぬける、距離を走れば走る程その猛威を強くして全てに平等に吹く風が、露出した肩を、腕を、突き刺す。この必死に意味を探すしかない待機時間は、まだまだ続きそうだった。
 寒い。冷たい。
 すぐにでも身体を解きほぐそうとしてくる寒さから身を守るために、膝を抱える腕にさらに力をこめ、肩までもを抱く。震えはしないが目だけは常にどこかをさまよって、かの人を探していた。皆それぞれの意志でこの場を離れてしまっていて、他多くの騎士達は別行動をとっていて、周囲には人の姿は見当たらない。ただ、風にあおられよわよわしく揺れる炎があるだけである。
 もうすぐ夜は明けるのだろうか、それともまだ夜半であるに過ぎないのか、詳細な時間は知れないが、どのみち空は厚い雲に覆われ、暗く、ただ気分を暗鬱とさせるだけだった。
 冷たい空気に温かくはない息をはく。もう砦からはずいぶんと離れた所まで来たはずだというのに、あの爆発音が、炎の燃える音が、小さな少女が発した悲痛な叫びが、耳から離れなかった。ごうごうとうるさい風の音に聴覚を支配されても尚、だ。


 考えるともなしにおぼろげな不安に身を固めていると、近くに何かの気配を感じた。人が来たということにも、それが誰であるかということにも、すぐに気付いた。さまよっていた視線を固定し、わずかに上げる。「ザルバッグ!」行動はいたって早いもので、シェルディはすぐさま立ち上がり、彼の元に駆け寄っていた。「他の者を探す」と言って有無を言わさず移動してしまったザルバッグの元に。
「他のみんなは?」
「好き勝手に行動しているよ。そのうち戻って来るだろうとは思う。」
 『そのうち』は、6人の間で無意識のうちに一致している『そのうち』だった。明確に言葉にせずともなんら問題はない。シェルディはいったんはその言葉に安心して、すぐに思い直して眉根を吊り上げた。腰に手を当て、ザルバッグに詰め寄る。
「あなたもその『好き勝手』のうちの一人なんだからね!」
「………う、」
「自分の状態をわかっているの?とてもそうじゃないことは私にわかるから、以降勝手な行動はしないこと!いいわね!」
「その小言は却下だ。」
「いいえ、その命令を却下します。」
「……上司命令だぞ。」
「あら、いつかに私はあなたに言ったわよね。『命令に従順なだけの部下がほしいなら、他をあたりなさい』。」
「…………。」
「…………。」
 刺々しい言葉の応酬も、無言での睨みあいも、風の音に決して負けずになされる。そしてしばしの間の後にザルバッグが少しばかりつらそうに顔を背けたのが判ってしまったものだから、シェルディの胸はいつものようにつんと痛んだ。
 彼がつらいことがつらい。それは今でも変わらないことである。
 しかしザルバッグは彼女の気持ちを知ってか知らでか、まるで何事もなかったかのように、そしてふと気付いたように、目を丸くして、「そうだ、これ」と言って、ひとつの包みをシェルディに手渡したのだった。
「なによ、これ。」
「温かいだろう。」
「うん。」
 安っぽい布地に結晶がくるまれている。まるで、光を放つクリスタルのようだ。
「持っていろ。それで温めるといい。お前の装束は露出が激しすぎるからな。」
 シェルディはザルバッグではなく、手の上の結晶をまじまじと見た。手を一度二度握って開いてみて、その温かさを確認する。
 そうしてから、その手をザルバッグに向けて伸ばした。そしてきっぱりと言った。
「いらない。」
「何だと?」
 ザルバッグが怪訝そうに顔をしかめる。
「あなたが持っていて。私には必要がないから。」
「まさか、温かくないのか?クィンの魔法だぞ。」
「ううん、凄く温かい。私はクィンのことを信じてるから。」
 伸ばした手は伸ばしたままで、シェルディは言う。
「でもあなただってクィンのことを信じてるわ。これはあなたが持っていて。あなたにとってもこれは、温かいでしょう?」
「オレのことはいいんだ。オレはお前が身体を冷やしているのではないかと思ってだな……」
「ありがとう。でも、平気。私のことは気にしないで。」
 しかしそれでも、手の上の重みはなくならない。シェルディはザルバッグを見上げて、風が吹いていて、ザルバッグはシェルディを見下ろして、そうしてようやく、状況は変わった。重みが抜けて、その反動で少しだけ手のひらが上に上がった。
 シェルディはほっとして肩の力を抜く。しかしその直後には2倍くらいに膨れ上がった温かさに手を包まれて、これ以上ないほど緊張してしまっていた。寒さに身をこわばらせていたときなど比ではない。
「だから、これは、お前が持っていろ!」
「…いっ、いらないわよ!離してよ!」
 結晶を握らされた手をぎゅっと握られたまま、シェルディはほんの僅かに頬を赤らめてしかしそれに気付かれることもないまま、ぶんぶんと自由にならない両手を振る。同時にザルバッグの手も振られて、しかし温かさは離れない。
 力関係においては本気でそうしようと思えばそうできないこともないのに、ただ心理的に本気でそうしようと思うことができないばかりに、手を振りほどくこともできずに現状を維持してしまう。
 そして彼の意志に強く反発することができないこともあって、ついに観念したシェルディは息をついて言った。
「……わかった、わかった。もらうわよ。ありがとう。」
「最初からそうしていればいいんだ。」
 結局、根本的なところで自分は彼に勝つことができない。改めてそのことを認識させられたシェルディは悔しいのか嬉しいのかよく判らない気持ちで、けれども恥ずかしさだけは明確に感じて半分の半分くらいに減ってしまった手の中の温かさを握り締めた。
「でも、あなたはいつも、人のことばかりだわ。お願い、自分のことも気にかけて。……こんなときなのに。」
「こんなときだからこそ、かもしれないな。だからこそオレは、現実を見たくなくて、他人のことばかり考えてしまうのかもしれない。」
「…………。」
 ザルバッグは、シェルディの言葉など意にも介してはくれない。それでいてつらそうな彼を見て、シェルディの胸が痛む。
 彼に無理をしてほしくない、彼に気を遣ってほしくない、けれども彼の意志に、できる限りは添いたい。私のこの痛みは、つらさは、限りなく矛盾し同時に成し遂げることが不可能である希望願望を抱える自分の宿命なのだろう。彼女にはそう思って自分をごまかすことしかできなかった。
「……ねえ、ザルバッグ。」
「なんだ?」
 温かい結晶、仲間の信頼と彼の気遣いの証を握り締めたまま、シェルディはザルバッグに話しかける。
「副隊長も、ウィリーも、カーティスも、クィンも、あなたがどんな決断、行動をしたとしても、ずっとあなたについて行くから、それだけは忘れないでね。」
 そう言った。シェルディには、そう言うことしかできなかった。彼の大きな手を、たとえ彼女のように素手でないとしても冷たそうなその手を、自分から取って温めてあげることもできない。
「……お前は…」
 ザルバッグが口を開いた。その言葉は風に流されることはなく、ちゃんと、シェルディの耳に届いた。
「……お前は、ついて来てはくれないのか?『命令に従順なだけの部下でない』お前は、オレが間違った決断、行動をしたら、オレを見放すのか?」
 シェルディは首を振って、答えた。いいや、ザルバッグの目を見て、自ら言った。
「……――お願い、傍にいさせて、ザルバッグ。私は完璧な部下にはなれないけれど、なにがあっても、あなたの傍にずっといる。だから、お願い。傍にいさせて。」
 彼がどんな決断をしても、どんな行動をしても、何が消えても、何があっても、この気持ちだけは変わらない。
 大切なものを根こそぎ奪われ、シェルディには、もう、戦いしか残っていなかった。そして戦いを、戦う理由を与えてくれるのは、この人だ。そして、大切なものを奪っていったのも、この人だ。そして、そして、……。
 手の中は温かい。そうだ、きっと、これは全部、この温かさのせいだ。シェルディは開き直った気持ちで手に手を伸ばして、触れた。心もとない温かさで包むようにして、握った。
「…あたたかい……」
 この温かさが、消えてしまうことのないよう、祈る。この温かさが、どこかへいってしまうことのないよう、願う。
 そして、この出来事が思い出になってしまわないことを、心のどこかで、誰にも、自分自身にも気付かれることなく、切実に、けれども静かに、小さな不安の中に混ぜて、望むのだった。








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