エバンナは目を開け、睡眠することをやめた。真っ先に彼女が視界に入れるのは、目の前の焚き火でも、眠る仲間達でも、鬱蒼と茂る木々でもない。
「ザルバッグ隊長。」
 呼ばれたザルバッグは疲れた目をエバンナに向け、短く、返事のような、ただの呻き声を発した。
「…エバンナ……もう交代か?」
「ええ、そう考えております。隊長はもう身体を休めて下さい。」
「ああ…」
 そう応答してザルバッグは身体の力を抜き、エバンナと入れ替わるようにして場所を移動するが、その挙動を見てエバンナは悟った。
 彼は疲れている。このままでは眠れない。
「眠れますか?」
「……ああ、眠る。でないと身体がもたない。」
 ザルバッグはそう言った。そして疲れたように頭を抱えた。
「精神的な負担が重いと、眠ろうとしてもできないものですよ。」
「それはよく知っている。だがこのまま眠ろうとしないわけにはいかないだろう。」
「ええ、それもよく存じております。」
「お前が見張っていてくれるんだ。よほど大丈夫だろう。」
「信頼頂き光栄です。
 隊長が眠るまで、子守唄でも歌って差し上げましょうか。心が安らぎますよ。」
「バカを言うな。いつどこで敵に見つかるとも知れないというのに。」
「…………。」
 エバンナは押し黙った。炎の向こうにザルバッグの姿を確認して、そしてひとつの確信と、決定を生み出した。
「そうですね。」
 ザルバッグは既に目を閉じていた。エバンナや仲間達を前にして。
 そんな彼に、エバンナは言った。
「ザルバッグ隊長。申し訳ございませんが、もうしばらく起きて、見張りをしていては下さらないでしょうか。」
 突然の言い出しにザルバッグはさして驚く様子も見せず、当然のように、スムーズに、答えた。
「ああ、別にそれは構わない。」
「私は周囲の見回りをして参ります。いつどこに敵が潜んでいるとも知れないので。」
 エバンナは立ち上がった。そして武器を手に、疲れているザルバッグをその場に残して、木々の中へと姿を消した。

















 大当たりだった。




 右の足の爪先をわずかに上げ、下ろす。平坦でない草地の中に転がる一本の小枝に重みが圧し掛かって、ぱきん、という小さな音が弾けた。
 その行動を為したエバンナの気配と、その小さな音と、静かな空間に「異常」の二文字を投げ込むには充分な事象である。
 火を囲んで会話していた男達、さすがに五十年戦争を果敢に生き抜いた者とあってか、彼らは即座に音に反応し、行動を開始した。
 まずは、火を消す。そして各々が武器を手に、神経を研ぎ澄ませる。空間を切り取っていた光が消え、男達の周囲も闇に同化する。
 しかしそのような行為も、既に暗闇の中しばらく行動しているエバンナにしてみれば無意味なものであった。青色の相貌は辺りを隈なく見渡すことができる。
 男達もそれを知っているのか、すぐに攻撃をしかけてはこない。
 やがて彼らの目が闇に慣れるのに足りる時間が経過した頃、男達のうちの一人、彼らの中ではその場を仕切っていた者が声を発した。
「誰だ?」
「北天騎士団本隊副隊長、北天騎士団団長ザルバッグ副官、エバンナ・ミルフデット。」
「…………。」
「参る。」
 剣を抜く、身を翻す、男達の中へ飛び込む。宣言の後、男達にもその意味が伝わるよう一拍の間を置いてから、エバンナは行動を開始した。
 長剣を音もなく横に薙ぐ。男達はそれから逃れるために後退するが、エバンナの正面に居た男、剣の描く曲線の始点に立っていた者だけは、彼女自身が逃さない。瞼を切り裂き世界を塞ぎ、勢いは殺さずに片足を軸にして回転、男達と正面から対峙すると同時に、剣の握り手をその男の顔面に叩きつける。
 背後で男が呻き、倒れた。
 直後には、また別の男が一人、エバンナに向かってくる。振り抜かれる剣は受け流し、鎧の隙間から刺すことのできる人体の急所を貫く。そのまま剣を持つ手を捻り、刃を男の身体の中で回す。肉を抉る音の前に骨をこじ開ける感触が伝わり、肋骨の間に剣が収まった。
 剣を抜かないその状態のエバンナに、もうひとつの剣が、隙のできた方向から振り下ろされる。エバンナは剣の先の男の身体を横から足で蹴り付け、体勢を変える。一人の人体を挟んで男と向かい合う。そこで男に、一瞬の遅れが生じる。エバンナはためらうことなく剣を押す。骨を削って刃が人体に入り込み、その向こうの人間の身体を突いた。
 力を込めて刃を押し込み、しっかりと身体を貫いてしまってから、長剣を2つの人体から抜き去ると、その先にあったものが声なく崩れ落ちた。エバンナは最後、怪我を負うことなく残ったもう一人を見て、足元の2人の心臓を突いた。
 彼、場の男達を仕切っていた男はどうやら思慮深い人物のようである。立て続けに2人が殺され、1人が負傷した中で正面から飛び込むことを諦め、その場に立ち尽くしていた。
 エバンナは彼から目を外すことはせずに、おそらくは何もかも判らぬままに最初の一撃を受け、世界を塞がれ、パニック状態に陥ってしまったのだろう、目元を押さえて呻く男の顔に剣を突きつけた。刃をわずかに触れさせる。
「…………要求はなんだ。」
 立ち尽くしていたほうの男が言った。
「貴方達の目的、要求を知ること。」
 彼らの会話をずっと立ち聞き、その全ての内容を理解している上で、エバンナはそう答えた。蛇足ではあるが、彼女は自身のこの要求、目的について、それが達成されることは微塵も期待してはいない。しかし敢えて言った。
「北天騎士団の騎士か――」
 男の呼ぶその名は、吐き捨てるように、実際に口から吐いて捨てられた。彼にとってその名は忌々しいものである。憎らしいものである。汚い、口にすることすら憚られるものである。
 エバンナは無言で彼を見た。かつては共に戦場に立ったことがあったかもしれない、しかしエバンナ自身はその姿を見たことがない、よって姿も名も知らない男を。そしてそれは、彼女の足元に蹲るもう一人の男も同様である。
 エバンナは立ち尽くす男からそれ以上のアクションがないのを見ると、銀色の縁で人間の肌をなぞった。薄い色彩の中、音も立てずに赤色が伝う。
「ひっ……」
 息を呑むような、声にすらならない音が男の口から漏れた。エバンナはそれを聞いた。
 聞いて尚、剣を収めることはしなかった。
 赤く伝う血液を銀で掬い、けれども切っ先は肌を、皮膚を、肉を引っ掛けたまま、顔をもう一人の別の男のほうへと向けたまま、エバンナは尋ねた。
「貴方達の目的は。」
「…………。」
 沈黙。剣の縁を溢れた赤も緩やかに頬を伝い、草地に落下する。血液を支えきれなくなった雑草の葉が跳ね、滴を夜闇に投げ出す。
 呼吸、瞬き、鼓動、無意識のうちの挙動全てが感じ取れる程に静かな世界の中で、エバンナは再度口を開いた。
「状況を理解しているかしら。思考が追いついていないようなら、解説するけれど。」
「…………。」
「…………。」
「………この、卑怯者…っ!」
 エバンナの青色の相貌が僅かに揺らいだ。男は悔しそうに歯を食いしばり、搾り出した声をそこから無理やり押し出し、地面を見つめた。
「卑怯者?」
 心外だ、という気持ちを表現するためにエバンナは語尾を上げた。
「そう、私は貴方達の基準では卑怯者となるのね。」
「当たり前だッ!とても騎士とは思えねえ!おまえは騎士なんかじゃない、血も涙もない、自動で任務をこなすだけの感情のない機械人形だ!
 おれ達骸騎士団を何の報酬もなく切り捨てたおまえ達なん」
「私もそう思うわ。私のこの戦い方は騎士にあるまじきものであると。」
 エバンナは男の言葉を、途中まで聞いた時点で遮った。彼の言葉はいとも簡単に、あっけなく遮られた。
「では、逆に尋ねましょう。貴方達は、――戦うことのできない一般市民を人質にとり、夜討ちを目論み、そして今、1人に多人数で挑もうとした貴方達は、卑怯であるのか、そうでないのか。」
「……おれ達のことはどうでもいいだろう!」
「そうね、確かにそうね。余計な話をしてしまったみたいだわ、ごめんなさい。それでは、」
 エバンナは剣を持ち替えた。切っ先を、今しがた頬に傷を付けた男から、今しがた、自身を卑怯と罵った男に向けて、言った。
「正々堂々、“卑怯な”行いのない戦いを、今から致しましょう。そちらの彼も、今倒れている方も、どうぞ。蘇生も、傷の治療も致します。必要があれば、必要なだけ、休んで頂いても結構です。
 全快の状態で、平等に、戦いましょう。それで意見は、――貴方からの不満はありませんね。」
 切っ先を突き付けられていた男にはそのとき、エバンナの姿が、金髪の女騎士の姿が見えていた。見えていたはずだった。
 しかし彼の視界の中にあったのは、決してそんな生易しいものなどではなかった。
 徐々に先が細まり、鋭くなってゆく剣の切っ先。極限までに研ぎ澄まされたそれは空気中に消え、ひとつの点ですらなくなり、人の目には見えなくなり、しかし確実に今、心臓に、喉元に、彼の身体の全ての急所に突き付けられている。
 男は無意識下で、指を、右の手の中指を痙攣させた。その現象と、見えるはずもない剣の切っ先がその中指に突き付けられるのと、彼にはどちらが先に起こったことなのか、その順序を認識することはできなかった。
 しかし全ての錯覚から男がほんの一時だけ目覚め、彼の前に広がる風景を目の当たりにしたとき、彼には金髪の女騎士の姿が見えると同時に、確かに、ひとつの絶望が生まれていた。
 ――絶対に、勝つことはできない。
 男は口内に溜まっていた唾液を飲み下した。それが精一杯だった。
「…………。」
 エバンナは男の目から戦意が消え失せ、彼女の足元に転がるほうには元よりそのようなもが芽生えなかったことを見てとると、剣を回転させそちらの男の首を刎ねた。
 重量のある、中身の詰まった肉質のものが落下する重いどすんという音がし、その様子を視界に入れることはせずに、エバンナは一歩、まだ生命を保つ男の方に歩み寄る。
 それに連れて一歩、男の足が下がる。一歩、歩み寄る。下がる。一歩、歩み寄る。下がる。一歩、歩み寄る。下がる。一歩、一歩、一歩、……
 男の歩みが彼の後退を阻止するもの――実態は何でもいい、木か岩か、それとも地面に転がる人の死体か、何かに触れ、彼はそれ以上下がることはしなくなった。エバンナは一歩、歩み寄った。
「最後にひとつ、言っておきましょう。」
「…………。」
「貴方は私に対して、血も涙もない、感情もない、自動で与えられた任務を遂行するだけの機械人形だと言ったわね。
 そう言われるのは私の望むところだわ。周囲から見れば私の行動は、正にそれでしょう。私は世間一般にそうとられることが必至であるという行動をしてきた。そのように見られて構わない、私の行動は何者に阻害されることもないと、生きてきた。
 ただそれは、事実ではない。正解ではない。
 私は、怒り、悲しみ、笑い、泣くわ。血も涙も流す。他の人では決して感情を動かさないような、彼らにとってはほんの些細な小さなこと、そんなことで一喜一憂する。今日はいつもより雲の数が多い、空気が澄んでいる、部下達が活き活きとしている、上司が落ち着いている、いつもと変わらない日がやってくる、いつもとは変わった日がやってくる、――そんな日々の全てのことが、私にとっては愛おしい宝物なの。
 私は貴方達にとっては、ただ、与えられた任務を遂行するだけの機械かもしれない。それで結構。
 恐怖も同情もためらいも愛も、この世の中戦ってゆくには、人々を守るには、彼を支えるには、邪魔なものだものね。それならば私は、そのようなものには決して捕らわれない。私は感情にも負けはしない。それで私は全てと戦う。戦って、そして、自らの為すべきことを為し、自らの求める“完璧”で、在り続ける。」
 少しの間。その間にエバンナは一度視線を下げ、戻し、男を見て、口を開いた。
「……余計なことを、喋りすぎたわね。それでも、彼らが私を心配するには、とてもではないけれどまだ短すぎる時間だわ。任務完了にも、――貴方の命をここで絶つのにも、支障はない。」
 命を絶つ、殺す。その圧倒的な事実を含んだ言葉に、男の中の唯一絶望に覆われなかった最後の感情が奮い立つ。
「おれをここで殺すのかッ!このおれをッ!」
 おまえ達のために戦ってきた、このおれを。後に続いた言葉は彼自らが中途で掻き消した。
 彼が目にしたのは、彼の目の前に佇む女騎士の姿だった。金髪で、背が高くて、鎧に身を包んだ美しい女性、
「だから私は今、怒っているの。彼らの、彼の歩みを阻害する人間は――絶対に許さない。」
 そしてその綺麗に整った美しい顔に絵画的なまでに美しく描かれた、








 数個の生命をこの世から奪い、痕跡を一切残さずその場から立ち去るその間際に、エバンナは小さく口にした。誰にともなく、敢えて挙げるなら、自分に向けて。鳥が鳴くような、全ての女性が憧れるような、美しい、凛とした、けれども、鋭利に磨かれた刃を内包した、人間の声で。
「任務完了。」

















「エバンナ、どうした?」
 仲間達の待つ場所に戻ったエバンナをまず最初に迎えたのは、ザルバッグのその質問だった。
 エバンナはそれに対し、不思議そうに、きょとんと目を丸くした。
「どうした、とは?私は見回りに出向いたまでですが。」
「…いや、お前に何かあったのではないかと思ってだな…」
 気まずそうに、言いにくそうに、わざとらしく、白々しく、どうとでも形容できる様子で、ザルバッグは答える。エバンナのほうを見ようとはしない。ただその目は揺れる炎を捉えている。
 エバンナはそんなザルバッグを見て、目を細めて、ほほえんだ。
「いいえ、何もありませんでしたよ。
 ですから、何も心配なさらず、隊長はゆっくりお休み下さい。敵など来ないよう、しばらくは、私が見張っておりますから。」
















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